公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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切り取りダイジェスト 2022/02/05 文学のトポロジー

2022-02-05 10:01:00 | 意見スクラップ集

どんなに切っても自己を相似形に再生するプラナリアのような生き物がある。トポロジーと自己の関係もそれに似ている。内容はすっかり変わってしまっても同一性を維持していることに無自覚であることに当事者が一番無知である。つまり文化の形や遺構を残しつつ真逆の文脈を語っているそういう表現活動(文学 芸術 政治)は多く存在するのです。


試しに◇の左半分を切り捨てても同じ自分であるが、果たして切り捨てられた左半分の中に自分の点は含まれていないという確信があったかどうか後になって後悔することがほとんどではないだろうか。恋愛などはわかりやすい例だろう。学問においても仮説を捨てるということは同じく苦しいことである。しかし苦しいと感じる人間はまだまともである。現代人は自己分裂に気づかないふりをして不本意な会社勤めや役人や政治家をやっている。だから自分のトポスを捨てたことに無感覚でいられるのだ。


形や遺構を残しつつ真逆の文脈を語っている例としては、現在の岸田自由民主党がある。主張する内容は真逆の社会主義である。しかし世襲貴族の政治トポロジーは保っている。芸術で言えば大島渚監督や岡本太郎だろう岡本太郎の芸術概念もその根本は本居宣長と相似形の《もののあわれ》武と美でできている。抽象と具象、美と醜、無機と有機、吸引と反発。進歩を否定する刀でその裏返しにすぎない伝統さえ切って捨てつつ再構成された《もののあわれ》に回帰している。日本人にしかないものを岡本太郎は自覚していた。日本刀のような矛盾する美の共存という美のトポロジーを維持している。大島渚は反権力左翼だが意図せず日本の美のトポロジーに嵌ってむしろ伝統的日本を再生産している。


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