公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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書評 「信長のマネー革命」 武田知弘 (著)

2015-01-11 19:55:37 | 今読んでる本
いつものように引用から。

「イエズス会の宣教師フロイスの著書 『日本史 』では 、 「以前はこの国々では 、一人旅をする者にとっては 、昼間といえども道路は万全ではなかったが 、彼 (注 :信長 )の時代には 、人々は殊に夏は夜間でも安全に旅ができた 。荷物を傍らに置いて 、道端で横になって眠っても大丈夫だった 。まるで我が家にいるような感覚で 、一人旅ができた 」といった記述がある 。江戸時代では 、商人が天秤棒を担いで諸国を行き来するのが当たり前となっていたが 、それは信長が治安を回復させ 、関所を廃止して以降のことなのである 。道路整備は 、他の戦国大名も力を注いできたものである 。しかし 、信長ほど徹底した道路整備を行ったものはなかった 。信長が他の大名に抜きんでた要因は 、この道路整備に見られるように 「必要なことは徹底的にやる 」という点にあるのではないだろうか ?」

「信玄は 、金貨を鋳造したが 、それを流通させる経路を持っていなかった 。詳しくは次章で述べるが 、信玄は信長によって日本の中心地 、京都への道を塞がれていたので 、せっかく金貨を鋳造しても 、それを天下に流すすべがなかったのだ 。また信玄は 、金貨の価値を裏付けるだけの政治力も持っていなかった 。通貨は 、その価値を保証する存在 (政権など )がいないとなかなか流通するものではない 。信玄は 、信長のように京都に旗を立てて 、天下に号令することはしていない 。そのため 、甲斐でいかに先進の金貨を造ったところで 、通貨としての価値が世間に広く認められることはなかったのである 。 「信長の金銀は流通し 、信玄の金銀は流通しなかった 」 ─ ─それが信長と信玄をもっとも象徴していることかもしれない 。枡の大きさの統一信長はさらにもう一つ 、重要な経済改革をしている 。それは枡の大きさの統一である 。商取引において 、ものを量る単位というのは重要な意味がある 。信長以前 、全国で共通の単位というものはなかった 。これは非常に不便なことだった 。」


信長が創り出したものは信玄とは全く異なっていた。名物漁りとも見られている茶道具に金を使ったのも流通を金で活性化する為に役立ったに違いない。今風に言えば、オダノミクスだろう。

信玄の金はただの軍資金だった。安全と流通は平和を前提とした社会で初めて成り立つ。一見矛盾しているがそのためには天下布武が必要だった。流通で繁栄したければ平和が当たり前という発想がこの時から埋め込まれた。



著者あとがきには、
「事業を成す 」とは 、つまりそういうことなのだろう 。未曽有の大災害に見舞われた現代日本にもっとも必要なものは 、この信長の 《事業精神》なのかもしれない 。本書を通じてそれを少しでも伝えることができれば 、筆者としてこの上もない喜びである 。

その通りと思う。戦をするも、繁栄事業を起こすも、コインの裏表と思う。信長を評価するには、その当時の日本の寺社による私的搾取をふりかえってみる必要がある。

1.叡山の荘園は判明しているだけで285ヶ所を数え、京の中心部に3ヘクタールもの土地を所有していた。僧兵の強制執行力と宗教権威を活用して金貸し業をやっていた。

2.叡山は運輸業者、馬借を支配し琵琶湖に11ヶ所の関所を設けて通行税を徴収していた。

3.兵庫湊では東大寺が北関、興福寺が南関という税関を設置して津料をとりたてていた。

4.本願寺系の大寺院は河口や街道の合流点など交通の要衝につくられており、寺域に寺内町という独立商工業地区を設けていた。

経済基盤がこのようなパッチワークで成り立っていれば、流通にイノベーションが起こりにくい。今では想像できないが金使いは大変な金融イノベーションである。信長の独創ではないとしても、各地の私的な収奪を打ち壊さなければ新規参入に扉が開かれることもなかっただろう。

信長といえば仏教に対しては叡山焼討や長島一揆に対する無慈悲な処断など、容赦のないイメージがあるが、協力的な寺院に対しては寺領を安堵している。叡山や長島に対する処断は度重なる裏切りに業を煮やした報復であったが、叡山の荘園は300ヶ所以上、京の中心部に広大な土地を所有していた。当時、天下とは畿内のことであり、安土に拠点を計画した信長にも政治的に叡山は見逃せない。
一方、信長の楽市楽座にも例外はあった、皇統家の収入源となっている関所は黙認している。最も争いの原因となる検地も戦が続いていては日本の完成とは言えない。
世間には信長による京升の統一も証拠は弱いという意見もある。だが、文献証拠が少ない事をもって信長の革命性は希釈されない。日本の前近代は、経済的近世は日本の歴史に無いと思うが、

当時の畿内は政治と徴税、搾取は複数の、寺社、皇統家、領主という重複する権威の元に置かれていた。その中で信長の果たした役割は、経済が国の礎であるという方向性と構想の革命性なのだから、マネー革命と言っていいかも。
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