柳田國男の不思議玉事件は、大変興味深い事件。本人の自伝的懐述に相当する「故郷七十年」という著作に収められている。
彼が十二才頃の話。その祠に収められた蝋石を見て不思議な感じに襲われ、ふうっと昼間なのに真っ青な空に数十の星がきらめくのが見えたという。ヒヨドリが鳴くまで我に返ることはなく、思い出としては、もしそこで鳥が鳴かなかったら発狂していただろう。ということだ。
この石は利根町に保存されている。近所なので一度見てみたいと思うが、しかし誰もがその体験を出来るわけではなく、同じようなことは起きていない。この不思議な体験(間引きの絵馬も)は柳田國男の人生に大きな影響を与えたことは、その後の著作からも明らかだろう。
この石はそこの家のおばあさんが亡くなる前に前に寝たきりになって撫で回していたという小さな由緒があるだけで、特別な歴史遺物ではない。そのような直覚は彼自身の能力であったのだろう。しかも同じような体験をいくつもしているそうだ。
さて、個人の体験はそれ自体に蝋石と同じように一般性がないから、この話は他人からすると石ころの話となって終わりだが、誰にでも得がたい体験の特殊性というものがある。この体験を教養や知識で解釈するのではなく、得がたい特殊な個物をどう直覚するか。
すなわち言葉にならない、見えたもの(Vision パースペクティブ)をどのように心のなかで温めてゆくかということが、その人の外界との関係を一生に渡り決定づける。なぜならそれがリアリティ、外界との関係を切り結ぶだけが唯一の自己の確認方法だから。そういう見えたもの(Vision パースペクティブ)の感受性の例として柳田國男の事例は面白い。しかし凡人はその経験や感受性が見せたものを信じることができず、みずみずしさを大抵忘れてしまう。教育もそのように機能している事が多い。
以上、私はあまりにも簡単に、しかもアッサリと外界といったが、日本人にとって外(ソト)と言う言い回しにはもっと深い意味合いがあって、それは自分自身の肉体的かつ精神的な再生と関わる内(ウチ)世界とは縁のない死の世界のことである。そのソトの世界をやがてもう一度見る世界と考えるか、いつかのぼせて見た夢と見るかで人間の生き方、この世に残すものに対する個人の関わり方が大きく変わるのだ。
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