公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

失敗という成果

2010-03-01 15:54:05 | 日記
「成果とはつねに成功することではない。そこには、間違いや失敗を許す余地がなければならない。」

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 資源採掘を行うとき、ここには埋蔵してないという掘削は重要な情報でありそれ自身が進捗である。

 失敗情報にも2種類ある。掘削者自体が無能か手抜きか当事者能力がないときのネガティブ情報と手ごたえが本当にないときのネガティブ情報。余裕のある会社は秘密裏に双方の情報を遮断し同じ掘削をさせることがある。なんとなく知れ渡るとき効果的な意地の悪いやりかただが、知識労働のプライドを挫くことさえある危険な手法だ。
 私の勤めたことのある会社ではそういうことは表向きなかったが、一流の会社でもよくやられている。
 先頭を走り続けているとき、本当に正しい方向に走っているのか確かめる方法がなく不安になることがある。先頭を切って失敗するという価値もフロンティアを突き進むパイオニア達には許されるべき。


 だが、現実はそうやさしくはないし、チャンスはすくない。
 ここを読んでみるといい。成功した起業家を調査しても、家庭や素質で起業家になれたわけではないという結論が示されている。
http://jp.techcrunch.com/archives/20100227can-entrepreneurs-be-made/

 起業家はビジネススクールのような抽象的な教育では成長できないことが述べられている。起業家はなんでも失敗して学ぶ。実践の機会が訪れてきたとき、なけなしの資産で最良の選択を探るがゆえに起業家が生まれるのである。

 その意図の美醜はどうであれ結果がその選択の良否を教えてくれる。

 ビジネスは過酷なものだ。それは演習ではなく実弾のこめられた白兵戦。備え、構え、執行してはじめて起業家がその結果により死んだり育ったりする。
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