左衛門 私もそのような気もするのです。けれどそのような心持ちはじきに乱されてしまいます。一つの出来事に当たればすぐに変わります。そして私の心の中には依然として、憎みや怒りが勝ちを占めます。そして地獄を証するような感情ばかり満ちます。
親鸞 私もそのとおりです。それが人間の心の実相です。人間の心は刺激によって変じます。私たちの心は風の前の木の葉のごとくに散りやすいものです。
左衛門 それにこの世の成り立ちが、私たちに悪を強います。私は善い人間として、世渡りしようと努めました。しかしそのために世間の人から傷つけられました。それでとても渡世のできない事を知りました。死ぬるか乞食になるかしなくてはなりません。しかし私は死にともないのです。女房や子供がかわいいのです。またいやなやつの門に哀れみを乞うて立つのはたまりません。私は悪人になるよりほかに道がありません。けれどそれがまたいやなのです。私の心はいつも責められます。
親鸞 あなたの苦しみはすべての人間の持たねばならぬ苦しみです。ただ偽善者だけがその苦しみを持たないだけです。善くなろうとする願いをいだいて、自分の心を正直に見るに耐える人間はあなたのように苦しむのがほんとうです。私はあなたの苦しみを尊いと思います。私は九歳の年に出家してから、比叡山や奈良で数十年の長い間自分を善くしょうとして修業いたしました。自分の心から呪いを去り切ってしまおうとして、どんなに苦しんだ事でしょう。けれど私のその願いはかないませんでした。私の生命の中にそれを許さぬ運命のあることを知りました。
残念なことに倉田百三はこの作品を若気のいたりのように追憶している。ここにも、世間に揉まれ、が登場する。いったい独立した個人にとって世間とはなんだろうか。自ら引いた線ではなかろうか。
『しかしいつまでも私に『出家とその弟子』のような作を書けと注文するのは無理だ。私はもっと塵にまみれて真理を追いつつある。世間にもまれ、現実を知り、ことに今日では貧苦の中に生きつつ国民運動もしている。しかし一生純情と理想主義とを失いたくない。『出家とその弟子』を読んだ人は是非『恥以上』(改造社発行)を読んでいただきたい。私といえば『出家とその弟子』をいわれるのは私としては有難迷惑だ。私はひとつの境地から、他の境地へと絶えず精進しつつあるものだ。そしてその転身の節目節目には必ず大作を書いているのだ。愛読者というものはそれでなくては作者にとってたのみにはならない。(「劇場」第二巻第一号所載、一九三六・一二・七)』
この戯曲を通じて倉田百三が描いた出家の限界は、架空の話ではあるが、倉田百三なりの親鸞に対する純情な同調と忖度が働いている。天によって人間に与えられた善の限界、世俗性を生きながら超える方法を見出すことこそが私の生涯のテーマである。もう40年近い昔にある重大な出来事を契機に拾ったテーマでもある。追補2023/08/01もう45年も過ぎたこの重大事件は、人の命が関わっていた。それゆえに世俗にはとどまれない。
この戯曲の親鸞のとおり自分の欠点はよくわかっている。結局脱出できないのならば、出家もそうでない者も共にここが地獄と思うしか救いがない。つまり、信心できなくとも大きな虚を以って大誠意とすること。選別を問わない本願による救済以外はない。これが仏教の真髄と親鸞の結論だ。これが救世主が選別するキリスト教と大いに異なる点である。
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