公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

「雲」 山村暮鳥

2016-09-23 18:58:51 | 俳句など
『藝術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの藝術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や眞實の行爲に相對するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが藝術をして眞に藝術たらしめるものである。』



山村暮鳥はどうしても詩が書けない時のほうが嬉しいという。書くことによって知ることは、書けないことの広大さであるという意味のことらしい。こうなるともはや達人です。

山村暮鳥は伝道牧師ではあったが、キリスト教徒とは言い切れない特殊な汎神論的、あるいは霊的立場で布教し、開墾した。40歳で死んだ。

私も貴方もたまたま生きてきた。ここにいない何人かは、たまたま生きている事を停止させられた。私は、性悪説だったから、君たちの特殊な生前の性善出家を見とる事もできなかったが、私は、向こうに行ったものたちが不幸とは思わない。ただ報告したい事はいっぱいある。言葉がとどかないのが悲しいだけの事。ある種の気配を感じながら、あるいはその気配を忘れながら、私は、生きる。見えない明日を見るために。


ゼンマイ命                 五峯



駅の地下道巣の中で

ゼンマイ仕掛けの雛達が

親燕《おや》の帰りを待っている

ジェえジェえジェえ


シュレージンガーの時計仕掛けが

朝の空気を刻む頃

主人のネジ巻き待っている

ゼンマイ命の

ジェえジェえジェえ

善く生きて

やがて廻向の野辺に

善く生きよ

やがて寂滅涅槃まで

ジェえジェえジェえ

われもまた

朝露ほどの命なれば


* *


南溟に たとえこの身が 果つるとも いくとせ後の 春を想へば 永峰肇19歳




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