公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

沈黙1

2013-08-26 15:39:46 | 今読んでる本
沈黙の淵に何かぶくぶくと湧きだすものが見えたとしても、見えたと語るべきだろうか。見えるという重大な一言の中に、わかるという有限の一言が含まれている時にそのシャボン玉は消えてしまいそうになる。もはや最初のぶくぶくではない。

わかるという薄皮が世界を包むかのような錯覚がこの世のすべてに思う。その上に立てば語り得ないのはほとんど生きて目にすること全体を指している。

語りえぬものについては沈黙しなければならない 」ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(1922年)

最初にこの言葉をめぐるヴィトゲンシュタインの後期について考えたのが今から3年前の事だった。なぜヴィトゲンシュタインは前期を放棄したか。リアルという世界もコミュニケーションも勝手気ままな創作と考えるというよりは、存在論を捨てて生成論で包み込めば、語り得ぬものも自然に収まる。沈黙は語り続ける。思考の虚構という旅に至るまでに3年もかかった。

語りえぬものこそ我々の幻想の根源である。「世界は諸事実へと分解される」そして、諸事実を集めることで世界が再創造される。サイエンスはその最もわかりやすい世界再創造の体系である。ヴィトゲンシュタインはその先を目指した。

この事実の再結合をサイエンスという人工的な論理ではなく、アプリオリにある諸事実再結合の共通形式が語りうるものの最低単位であるという結論に達する。

その最低単位はどうやってできたかというと、もうその先に答えはない。問いが最低単位に介入してしまい語りうるものを語る最低単位を破壊してしまうからだ。
1*13 論理空間の中の諸事実こそが世界である。

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