公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

自力救済と日本人

2013-08-24 09:29:18 | 日本人

近代、ことに法律に基いた判断・判決で権力を行使することが正統と考えられる現代では、自力救済(ここでは民法的に問題とされる、違法性阻却事由の要件としての用語ではなく、self-helpという広い概念)は例外的に正統な行為とみなされている。
しかしこれから日本でも始まる強奪社会では自力救済の地位は政治の危急な変貌を通じて高まってゆくことだろう。簡単にいえば、奪われたものは実力で取り返すという自衛、自力救済の覚悟が必要ということだ。かつてファシズムは運動として始まったが、資源としてのオイルピークが過ぎ去ったことが各国の前提となった2013年から今度は石油によって支えられていた経済基盤、軍事、農業、飲料水ライフライン等の民生インフラとそれを支える経済基盤の継続性崩壊の中から起きてくる。地上のどのような国家も資源争奪のファシズムを逃れることはできない。左翼や右翼、反日、親政と言う対立問題ではなくなる。

既に各地で起こる政府系サーバーのハッキング、無人攻撃兵器を含めた国家腐食攻撃は実弾の飛翔のあるなしに関係なくグローバルに進行中である、日本の内外の環境がそのように変質している。それにもかかわらず、これからもこれまでどおり、日本人が社会システムを逸脱しないのが日本人の美徳であるという誇りと自覚は変わらなくとも、争いをひたすら回避して逃げまわる平時の「美徳」と遠慮によっては版籍の公正が得られないと日本人が気づく時代がやってくる。

自力救済は昨日今日の流れではなくこの先数十年は確実に続く全地球的強奪社会に適応するために避けられない自己防衛であって侵略や反逆ではない。
政治原理として極めて実際的で有効な<自力救済>というあまり聞き慣れない言葉が<民主国家防衛>のキーワードになる。将来はこの変化がなんと呼ばれるか予想できないが、これを<国民奉還>革命と呼んでももいいだろう。童門冬二流に時代表現するならば、第二戦国時代である幕末から明治、サイバー空間を含む新しい社会構造がもたらす、内外に勃興する第三戦国時代の始まりにある。
まだまだ日本人はおよそ五段階を経過する革命の三段階目にあることに気づいていない。時代を読む時には、この先の第四段階の予兆を見逃さぬよう、貿易・同盟関係など将来機会の喪失、重大な資源権益や国土の喪失、独立運動の放置など統治の劣化、反日外国活動の輩(吉田清治の済州島200人連行証言1983年出版などはもはや古典に属する)に注意を払うことが肝要となる。

第四段階では、たとえ既存の法体系からの逸脱であっても、事態の緊急性、重大性を鑑みて、政治的に正しいと受け入れられる特殊状況がやってくる。明治維新以降中央集権政府の基礎に対する国民の自衛的反逆は封印され、日本人はすっかりこういうことが苦手な国民性になってしまったが、民族としてはむしろ自力救済の歴史のほうが長い。そうはいっても<道義と想像力に基づいて>信託し判断するのはあくまでも国民自身である。憲法の変更が必要ならば、手続きは踏まなければならない。ただ、今の日本に欠けているのは甲論乙駁の時代沸騰だ。コップの中の温度上昇くらいで国民が目覚めることはない。

現代の日本人の行動を抑制している軛(くびき)は、過剰な法治主義、言い換えれば、①国民に法解釈を許さない権力の集中、その裏返しの②国民による執行実態の無監視、③支える政治的無関心を導く反日マスコミの調伏愚民策の悪劣な三位一体に原因がある。もちろん①については、裁判官も検察官も内閣法制局の役人も法律家もそれぞれ国民ではあるのだが、事実上罷免されない度合いに応じて事実上外部批判を受け入れない特別な国民=悪劣な三位一体と化している。政治家自身も為政者としては本能として一般国民に自力救済の勝手を許すと、秩序が混乱することを恐れている。為政者が遵法精神を要請するメカニズムは「理性の社会面」で既に述べた。しかし過剰な法治主義、因循姑息な形式主義がもたらす公正からの逸脱があれば、それは国民の手によって、是正されるべきである。勇気ある政治的代表者が混乱を恐れずに自力救済を復権させるべきである。最近のドラマの流行語で言えば<倍返しだ>という気分がそのころの国民に相当するかもしれない。来る時代は脱藩ではなく国籍離脱と自力救済という劇薬により近づいているだろう。


例えば、原発事故。緊急性と重大性から考えれば、福島第一原子力発電所の事故処理は、平時に考えられた法的処理ではなく国民が自力救済すべき事態に相当する。一刻も早く世界の技術を集めて、規制と私人の権益を抑えて実行しなければならない。いつまでも法と秩序に従って当事者能力のない(あるいはあることが証明できない)東電に任せている現状は違法状態ではないにしても過剰に抑制された最善回避の遠慮である。既に電力問題ではないし、事故当事者は増加し世界中にひろがり、未来の人々も当事者である。これを狭い範囲の当事者に任せていては、この合法性、手続き遵守は著しく国民の要求する公正を欠いている。こういう場合に必要なのが自力救済という国民に固有の権力の執行、リセットなのです。

日本の自力救済は封印されていない、封印は、能力が失われたと国民が思い込んでいる幻想にすぎない。自力救済は国民の自由意志である。


最後に三島由紀夫の檄文を見てみよう。これが日本人が行おうとした自力救済の失敗例である

われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。
かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。 
われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。
 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起ったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。
 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。男であれば、男の衿がどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。
 われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。
 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。


   三島由紀夫

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