深度計予備回路

どこまで行けるか模型生活!
粘土でキャラドールの首をつくろう!
箱模型もつくろう!

少年の日の思い出

2009-12-07 21:39:59 | Weblog
えっと、師匠とは!!????・・・・・というお話。

イキナリ、よくわからないのですが、
なんか、好き放題に、模型つくったり、人形つくったり、FF生活してるだけで、
一部の方々に、師匠と、呼ばれたりして、凡人としては、非常に微妙な状況であったりなかったり・・・・・

まーなんだか、それで喜んでくれてるのは、有り難いのですが、
当たり前に各方面、あたしより何倍も、「すげーーお方々」が、いらっしゃる折

「へんだなーーーなんーーかみょうだなー」と、稲川節で、自答してみたりします・・・・・

模型部の書き込み呼称にも、なぜか、あたしのハンドルの後ろに師匠がついてて、毎度なんか微妙で・・・・・・
「いらぬ、ぞんぜぬ」といった、お話も、粋じゃないので、「まぁ、遠まわしな嫌味みたいなもんだろう」と、甘んじて、そのまんまにさせてもらってます。

アニメとか、漫画の師匠は、技とか知識に長けてるだけじゃなく、「どっか変」で、「困った人」も多いわけです。
きっと「そういう意味」で、「呼称を楽しんで頂いてる」のだと、深く考えず、否定も肯定もしないのが、やっぱし「粋」なのかなと・・・・・・

どっちにすれ、結論からいうと、結局ちっとも偉くない人な折、いつでも、師匠のネームはお返ししますので、もっと偉い方々には、どうかご容赦をお願いいたします。

「じゃぁあんたには師匠はいないのん?」

・・・・ってなお話になるんですが、事趣味に関しては、師匠とかつくりません。
自分の身の丈でやるのが好きなので、師匠と慕う、偉い人のとこで、修行したり、偉い人を目標に切磋琢磨とかは絶対しない、スーパーものぐさ太郎というか、
所詮、カエルはカエルなりに、上手な泳ぎの練習できれば充分だと思ってます。<ソレが楽しいし・・・・

でも、こんなあたしにも、「心の師匠」が、居ます。

小中学校の頃の、友人なのですが、彼からは、いろんなことを学びました。
つまんない事を、全開で楽しむセンスとか、明るくてストレートに変なノリとか、漫画のような作法とか、色々色々

こう書いても、何のことやらわからんので、心の師匠の話とか、エピソードとかをちょっと。。。。。。

ココロの師匠は、生まれつき髪の毛が弱く、色黒で、バラクオバマに似た、好少年でした。

成績は程ほどだったけど、運動神経はよく、野球板でも、駄菓子屋の立ちゲームでも、何をやらしても上手い・・・
<彼のアニキは、男前で、頭がよくって、運動神経抜群といった、スーパーマンだったけど・・・・

「主役というのは、こういう人であって、ぼくは、やっぱし脇役だなぁ」と、子供心に思ってたし、それが嫌じゃなかったのを覚えてます。

彼とはいろんなことをしました。

発泡スチロールで帆を張った、船作って、風上から、氷の張った池に放し、投石で割りながら横断させたり、
ネズミ花火の巻き方を工夫して、ジャンプさせたり、
タミヤロープウェイセットを、団地の一階から五階まで敷設したり、
拾ったマッチで焚き火して池の周りを火の海にしかけたり、
イタズラ電話をドラえもんのうたで撃退したり・・・・・

中学校が遠かったので、退屈な、通学路、道にころがってる洗面器とか、ゴミを、けとばして、ドリブルしたりしてると<サッカー(・・・というよりキャプ翼のノリ)が好きだった
ある日「これをもってきた」と、タプタプの水風船をカバンから出す彼。

中には”絵の具水”が入ってるらしい・・・・

慎重に蹴ってても、そのうち割れるんだけど、割れたら、「なかにもう一個」入ってまして、絵の具水の色が違う芸の細かさ・・・・・・・
<さらに、それの中には、もう一個入ってたとおもう。

彼と銭湯にもよく行って、いろんなイタズラしたもんです。

彼の洗面器に入ってるシャンプーは、子供用低刺激シャンプー「キンダーシャンプー」でした。

髪の毛が弱かった、彼は、いつも、近鉄バッファローズの帽子を、かぶってましたが、「あぁ、シャンプーも気を使ってるのだな」と思いつつ、

「キンダーシャンプーつかってんのん??」と、聞くと、

「パンダーシャンプーや・・・」という、

「キンダーシャンプーやんけ!!!」と、突っ込むと、

「よくみなさい」という

よくみると、キンダーシャンプーの「キ」が、マジックで「パ」に書き換えられておりました。

「仕込みといのは、こういうものか」と、頭を石で、どつかれたような衝撃をうけました。

そういえば、冬になると、彼の衣類からお菓子が一杯でてきました。
ポケットから、ガムとかチョコレートが、でてくるのは当たり前ですが、
袖から、冬ミカンを数個とりだし、その後、お腹のあたりから、キャラメルコーンの大袋が・・・・・・・・

風呂の脱衣場では、調子っぱずれの、ゼンダライオンの唄とかケロッコデメタン(デメタンのところが”メイタン”に、なっていたと思う)うたってたり、
なんというか、何をやっても、目の覚める切れ味でした。

「あぁ何時か、こういう人に成りたい」と、思いながら、高校生に成った頃には、違う道行になってしまいました。

それからずっと、心のどこかで、彼の影を追いながら、「切れ味の良い変な人」を、目指し、それが、だんだんと染み付いてきました。
であった、いろんな人から、「変」とか、楽しさを吸収して、練り直し、空気を吸うような自然さで、変な切れ味を発揮できるように、楽しく自分を鍛えていた気がします。

そんな彼も、いつしか所帯をもって、「ずいぶんと普通の人になったきがする」と、ぼくねんさん(このひとは幼稚園から友達)に、聞きました。

そんな彼に会うのはちょっと怖い・・・・・・・・・

              やっぱし、彼は、人生の師匠だったから・・・・・・・・

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6 コメント

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一人身のジジイ・・・ (唯緒)
2009-12-09 20:58:42
うーーん、そんな感じなのかなぁ・・・・・・・
確かに、あたしら、ボール紙とか、スポロガムの箱で飛行機作って、消しゴム人形乗せて遊んで、思いっきりたのしかったんだよなーーーー<変形合体もしたんだぜーw

当時も玩具やプラモが、無かったわけじゃないけど、それはそれこれはこれで、
自分で作る楽しさは別格だったわけで・・・・・・

まぁ、今は、プラモ一つとっても、頑張らなくてもすばらしい物があるし、
どうにもならんもんをどうにかしないと始まらない危機感も生まれにくい・・・・
女の子の立体人形欲しかったら、ハズイ思いしてレジでガレージキット買って、何べんも失敗して、顔が、まともに塗れるようになってはじめて手に入る・・・・ってな事ももう無い・・・・・AMAZONで、5000円払えば、すんげー可愛いのが、送られてくるもんねー

あたしの首作りも「思ったものが無かった時代の回答」の一つで、続ける過程に手に入れたもんは沢山ありました。
<つたない技術であり、友達であり、女の子用品をレジして「俺のだからリボンはイイです」っていう胆力とかw

こんな時代でも、創造する子は居ると思います、もちろん我々より長い発射台と、強力な推力を持って一段も二段も高いところから飛び立つことが出来る。

「出来てしまった恵まれた環境」は、無しに出来ないけど、「それに我慢できない精神」が、ある事に期待したいし、ひょっとすると、子供にボール紙で遊ばしたり、ゼロから、自分の絵を描かせたりするのは、大いに、ご両親の裁量なのかもしれないのかも!と、一人身のあたしは思ってみるがどうだろう。

でも、アマゾンのユーザーレビューで、ガンプラに、些細な、ケチつけてるのとか目にしちゃうと、

「おまえらここに並んで座れ!!!!!!!」とか、ジジイっぽい事をいいたくなります・・・

歳だな・・・・やっぱし・・・・
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う~ん、微妙な感じかね~(;^_^A (ぼくねん)
2009-12-09 12:53:34
実際、ワシには2人の娘がおります。

彼女等や友人達を見て思う事は、「無いトコからどんだけ希望の部分まで持って行けるかを考える力」が多分に不足してる気がするな~。

今の時代はとにかく物が溢れてて探せば大概の物は手に入りますわな?
だもんで、探す事はすれども無ければ諦めてしまうきらいがあるね~。

親としても人としても、ちょっと残念に思いますな~。

厚紙やティッシュの空き箱からロボットを作ったりとかしてたワシ等からすると、有りすぎるのも考え物かと…(;^_^A
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早かった奴ら (唯緒)
2009-12-08 21:31:37
kopannさん江

大事なんか!!!???

それはともかく、ガンダ模ブームの時は、まだまだガキンコだったんですが、
砂漠で、一滴の水を探すかの様に、かなり広い範囲の玩具屋さんとか、プラモ屋さんを探し回ってりました。
たぶん、手段が目的になってたのかもしれなかったけど、ソレはソレで楽しかった~

地元では、微妙に年齢が一つ二つ上のコミュニティーだったので、その中には、程ほどに、出来る人も居ましたが、
「ガンキャノンの大砲をつけるだけに終わらないジムキャノンっぽいものが作れるレベル」といえば、わかっていただけるかしらw
あたしらは、「自分で色を塗る物だ」という、見知らぬ黒船が、始めて到来した感じで、
まだ「濃い塗料は薄める」発想も無、くレベルカラーのスカイブルーで、グフをコテコテにしてたのを思い出します。
HJとか、同別冊を読んで、できん真似事をしたり、「どんだけゴミを作った事やら」w

でも、ミクロタッチとかに挑戦した後、わりと早い事、オリンポスの4004Tと101ピースとか買った気がします。
<ボンベで作業してたら、たぶん上手になれ無い気がした・・・・・(上手になってからならボンベでも良いとおもうけど)
レトラ買ったあと、4004は、模型部のオジサンに譲りましたが現在も元気に稼動し、メタルボックスのショーケースをにぎわしているようです。
たぶん25年以上は経ってるはずですが、本職用の機械は凄いともおもいます。

その頃から、ぼくねんさんとかと、遊んでたおかげで、たぶん今でもプラモとかしてるんだと思うのですが、
当時を、思い起こせば、「早い奴」は、いました。
一つ二つ上でしたが、小学校高学年(だったはず)で、アニメ誌を、欠かさず買って、ヤマトや、カリオストロに傾倒し、
ドラマ編テープを、繰り返し聞き、「オリンポスのポロン」の主題歌を、楽しそうに歌う、T君
その後家の都合で、引越ししちゃったのだけど、そうでなければ、たぶん末永いマブダチになってたと思います。
あと、中学校の同級生のO君も早かった・・・・・・・
わたなべひろしさんが好きで、人目を恐れず、ミンキーモモの等身大ポスターを部屋に貼る、タフガイ・・・・・・・
ロリコンなどという言葉がやっと、巷に広がり始めたころでしたが、たぶん彼は早すぎたのです・・・・・・・・・
あぁ、イデオンと、ゼネプロ同人が大好きだったK君もな・・・・・ちからづよかった・・・・・・・・

みんなどうしてるのかな?
わしだけが、大人に成り損ねたのかな・・・・・・・

Kopannさんも行き遅れの大人の仲間ってことで、

   「もう足抜けできねぇ!」

ぼくねんさん江
ぼくねんさんもそだけど、親しくて影響をうけた奴らどもは、いっぱいいて楽しいガキンコ時代だったけど、
「素で人を楽しませる不思議な人」ってことで、彼には、憧れをもってましたよ。
マニア気質はからっきしだったけど、エンターテイナーとしては別格だったw

大人に成っても、三つ子の魂百までっていうから、意外と性根は変わって無いかもしれないけどなw
幸い電話番号はわかっとる事だし、連絡が取れた時とか、会えた時、チャンスがあった時は、
天が与えた「潮時」なので、きっと楽しい事があるかもしれないな!!!


まつまるさん江
まるで、そのままドラマになりそうな、先生ですな!!
<最近先生物ドラマって少なくなったよね・・・・・・・
藤田和日朗の漫画みたいだw

最近は気軽に学校に遊びに行けないって、変な世の中になっちゃったけど、
出来る事なら、尋ねていっていただきたい!!!!!

あたしも、思い出のある先生は、以外に少ないですよーーー
小学校の担任で、あたしの中から、妙な委員長体質を発掘してくれた、年配の先生が一番記憶にあるかなぁ・・・・
それは、果たして良いことなのかいまだにわからんのだけど、(気苦労も増えたし)
今思えば、それぞれの生徒の気質を、しっかり、見てたんだとおもいます。

最早、親の年齢になりましたが、最近では、先生もいろいろ肩身が狭そうで、気の毒です。
熱心でも喜ばれず、放任は非難され、個性は疎まれる・・・・・・・・

なんか、やな感じです・・・・・・・

まつまるさんが好きだった先生に憧れて、先生になった人もひょっとするといるんじゃないかと思うのですが、
その人が、その憧れを開花させれるよな、学校であって欲しいと、思います。

これから先も・・・・・・・

子供も、学校も、家庭も、先生も、お父さんも、お母さんも、すべからく代わってしまったのかもしれないけど。
体裁抜きの、「感動」とか、「憧れ」って、意外と普遍だと思うんですよね。

あたしも、「いまの子供を、どこか諦めてる」とこがある気がする・・・・たぶんそれが、いけないのかな?
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師。 (まつまるたかひこ)
2009-12-08 14:36:04
自分が師匠、というか心の師といつも思ってるのは中学一年の時の担任の先生ですね。
美術の先生だったのですが、人里離れた山の上に住んでてそこから街まで自転車でやってくる人でした。
年中裸足で、内側にはカビさえはえてる野球帽に昔生徒がくれたというグレンダイザーのバッジつけて、いつも同じジャンパー着てて。
校内でも外でも裸足で、雪が積もった日には授業を雪合戦にして本人も裸足で参加したり、美術室でも落ちてる画鋲を踏んでも気づかず、女生徒から画鋲踏んだよー、と教えてもらって初めて、おおそうか!と足の裏に刺さった画鋲をヒョイ、と抜く様な人でした。
普段はとぼけた雰囲気で面白いのに、生徒が何か悪い事しでかすと本気で怒り、張り倒してくれる先生でした。
(生徒も自分が悪い、と納得させられるので反抗する者もいませんでした)
帰りのホームルームが終わると
「しからば!(ここで教壇をバンッ、と叩く)終わり!!」
とビシッと締めくくるのも好きでした。
この先生から教えてもらった言葉で「克己」という言葉は今でもとても大事に思ってます。
自分が成人した後は他の中学校で校長先生になってて、会いにいったら流石に靴下もネクタイもしてましたが、本当に窮屈そうで可笑しかったです。
(相変わらず山から自転車で来てたみたいですが)
なんか、教師という枠には収まらない不思議な人で大好きな大人でした。
他の先生からは申し訳ないけれど感じられなかった、憧れを心底感じさせてくれる人でした。
描く絵も不思議な味がありました。
もう定年されてるかと思いますが、そのうちまた会いに行ってみたいものです。
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確かに彼のおかげで楽しかったわな~ヽ(´▽`)/ (ぼくねん)
2009-12-08 12:48:29
今はどうしておるやら、結局お互い電話せず仕舞いやったしね~。
正月実家に帰った時にでも顔を合わせられたらエエんやが…(;^_^A

今思うと非常にアイディアが豊富で実行力もあったんよな~。
むか~しから尻の重いワシは羨ましかったよ~。

まあ、でも大人なりの楽しい時間は過ごせると思うんで、会わないってのはナシにしようよ。

今だから楽しい友達付き合いってあるしさ~ヽ(´▽`)/
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三丁目の夕日みたいな・・・でもない (kopann)
2009-12-07 23:20:53
まあ、ちょっと唯緒(師匠)←これ大事~

のお話で思い出したりしたことなんですが、方向性が違う話になるやもしれませんがお話させていただきたいと・・・

私の高校生の始めに一大的にガンプラブ-ムが起こりましてキットは中々手に入りにくい状況でした。
そのなかでHOW TO BUILD GUNDAMと奈良林先生のHOW TO SEXは自分の手放せないバイブル的存在でした。高校の仲間たちは当時のバイクブ-ムも受けてMB50やらCB50やらを買って放課後走り回ってまして、私もアニキのホンダTなんとかいうモトクロがありましたんで乗りまわってました~
その中で桃谷に住んでるトモダチがMB50で乗り付けて商店街に行こうヤ~とボクの家に毎日来てました~商店街には今はもうない布施モデルがあったのです。
当時ガンプラと言っても今の分類でいくと出来の悪いモナカ割キットで可動範囲が少ないしろものでしたが、他に良いアニメキャラものなどは未だ存在してませんでしたから(MGとかHGとかを良質のものとするならば)
それでもボクらは充分脳内変換でアニメで活躍してる姿に置き換えて満足しておりました。
塗りも筆ぬりか、もしくは素組(こんな言葉さえナカッタヨ~)でした、改造なんかトンデモナイいうところで、川口名人の作例を見て、スゲ-スゲ-と言うてるバカ学生でした。
でもその桃谷トモダチは当時早くにエアブラシを導入してコンプレッツサ-で模型を塗装してました、しかも大幅に改造も施してめちゃめちゃ上手かったです。かれの作品を部屋で見せてもらった衝撃は図りしれませんでした。
当時のコンプレッサ-とハンドピ-スはかなり高額だと思われますね~失礼ながら彼の家はそんなに金持ちには見えませんでしたが当時は・・・

当時は、模型が趣味でガンダムを作ってるとかアニメが趣味とかが大っぴらに言えない時代でしたから(バイクは何故か認められた、不良のニオイがしてたのかも)
彼もボクもおおっぴらにはガンダムとかプラモとかはいいませんでしたからその点でとりわけ彼とはウマがあったのかもしれません。
話が長くなりましたが、彼の時代の先行く作例を見せられてボクは大仏開眼みたいに目を開かされたんだと思っています、コレハ自分の中では衝撃の体験でした、ちなみに童貞喪失の衝撃の体験はこの後の高2の夏でしたが・・・
彼は随分と先を行ってました・・HJ誌の作例とかも当時の洟垂れはスゲ-スゲ-言ってるところを、あんなんヘボやというてましたね~
しかしながら、そういう孤高を気取る性格からか仲間からは煙たがられてましたね~高校3年に上がる頃はクラスが変わり付き合いも自然となくなりましたが・・・
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