日本映画を代表する俳優で、10日に亡くなった高倉健さんが初主演を飾った映画は、沖縄が舞台の「電光空手打ち」(1956年)で、その役柄は沖縄空手の使い手だった。
代表作「網走番外地」シリーズの「南国の対決」(66年)でも復帰前の沖縄を訪れるなど、沖縄への思い入れも強く、人々とのつながりも大切にしていたようだ。
「高倉健さんは沖縄が大好きで『世界一の海と空、そして人情の島』と話してくれた。八重山のことも本当に大切に思っていた」。那覇市の沖縄関ヶ原石材社長の緑間禎さん(60)は高倉さんと28年前に過ごした時間をかみしめるように、若々しい高倉さんと共に写る記念写真を見詰め、訃報に声を詰まらせた。
出会いのきっかけは「墓石」。知人を介して高倉さん本人から「恩師である映画監督の遺骨を八重山に納骨したい」と墓の建立の依頼を受けた。当時社長だった父と3歳の長男と共に、高倉さんと監督の妻、娘を迎え、納骨に立ち会ったという。
沖縄の経済や人々の暮らしにも関心を寄せていたという高倉さんは、八重山への納骨が監督の遺言だったことを伝えつつ、「監督の名や墓の場所は口外しないでほしい」と要望した。緑間さんは「多くを語らない健さんらしい願いなので、僕も健さんと会ったことすら、家族と身近な社員以外には秘密にしてきた」と明かす。
緑間さんは、高倉さんの実家が自身と同じ石材業だったことを訃報の記事で知り、あらためて胸に迫るものがあったという。「『毎年(墓がある)八重山に来ます』と語り、本当に来られていたようだ。恩師の家族を大切に守り、若造だった僕にも敬語で話す、礼儀正しく律義なスターだった」と振り返った。
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