琉球国が1854年7月に米国と結んだ琉米修好条約の原本は当時、6通あったことが6日までに分かった。
1955年11月にフランスと締結した琉仏修好条約の原本も当時3通あったことが判明した。
史料研究者の栗野慎一郎氏が「琉球王国評定所文書」と「尚家文書」で確認した。
現在、琉米条約原本は外務省の外交史料館が保管する1通、米国立公文書館で1通、琉仏条約原本は外交史料館で1通、フランスの海軍公文書館で1通が確認されている。
米公文書館は琉球新報の取材に対し、条約を締結したペリー提督が米海軍長官に宛てた手紙の内容から、米国に3通渡ったのは「間違いない」と回答した。残り2通の所在は特定できていないという。
米側代表のペリー提督と琉球側の「総理官」は54年7月11日、正本4通に調印し、双方2通ずつ受け取った。
その翌日、米側の「翻訳官」がさらに2通の調印を要求。交渉に当たった板良敷(いたらしき)里之子(さとぬし)親雲上(ぺーちん)(後の牧志朝忠)は最初の4通で了解してほしいと嘆願するが、米側は、原本がネズミの被害などで損壊するのを恐れ「予備」として締結を迫った。13日に2通に調印、双方1通ずつ持ち帰った。
琉仏条約については、琉球国はフランスのゲラン提督との間で3通調印し、2通は提督側、1通は琉球が受け取った。
琉蘭修好条約の締結交渉に関する史料は確認されていない。
琉球側の3条約原本は74年、1通ずつ明治政府に没収されたとみられる。その際、琉球は3条約の写本3通を明治政府から受け取った。琉米条約の正本2通と、3条約の写本3通が首里城内に保管されていたはずだが、栗野氏は「79年の『琉球処分』(琉球併合)の際に没収され、その後、関東大震災で消失したのではないか」と話している。
外務省の外交史料館が保管している3条約の原本は29日まで浦添市美術館で開かれる「琉球・幕末・明治維新 沖縄特別展」で展示されている。(新垣毅)
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