福岡市の市街遺構である鴻臚館址に行ってみます。
鴻臚館は、外交施設、今でいう迎賓館でしょう。
福岡の”迎賓館”も赤坂と呼んでもさほどはずれない場所(福岡城縄張り内)にあります。
先日覗いた基肄城(きいじょう)の位置関係も良く見える地図です。
白村江の戦いに敗れた日本が、新羅唐軍の侵攻に備え、九州の要大宰府を大野城、水城のラインで最終防御、裏を取られないよう基山の基肄城
を拠点とした・・・そういう必然性が見えるようです。
大宰府南西の茶色の部分、背振山には自衛隊のレーダーサイトがあります。電子の目ですね。その近隣九千部山には放送通信設備が集中します。
いずれにしても見通しが利くということでしょう。
湾岸にある怡土城(いとじょう)は、この頃の緊張関係とは背景を異にするようです。
施設が使われなくなる際、トイレがごみ捨て場として利用されたのでしょうね。
トイレは非常に重要な情報源です。その頃の食生活(裕福度)や衛生状態を伝えます。
平城京から遣唐使つながりとなりました。
博多(鴻臚館)が、国内最終補給地だったようです。
最終は文字通り”最終”かもしれません。そんな厳しい旅だったでしょう。
遣唐使は4隻構成、日をずらして出港したとあります。全滅防止策ですね。
ということは、一挙全滅という回があったのかもしれませんね。(TT)
結構大きな船ではありますが、瀬戸内を出れば木の葉でしょう。
紀伊半島から四国沖方面で1万トン級の旅客船(乾舷が高いので揺れにくい)でも低気圧でもみくちゃにされた経験があります。
”同じ敷地”と言ってよいのでしょう。
福岡城遺構に寄ります。
”福岡”とは、黒田氏の故地(岡山・邑久)からとったとあります。
天守が白く作ってあります。
あったかどうかわからないからだそうです。
”あいつ(黒田氏)、幕府に遠慮して天守を壊すらしいぞ” という古文献があるそうです。
壊す以上は”あった”ということでしょうね。 文献が正確であれば・・・
黒田氏は、豊臣・徳川両勢力がせめぎ合う間隙を突いて天下を窺った(●`w´●)ニァ ということを聞いたことがあります。
さすがの軍師・戦略家の発想でしょうが、両軍の雌雄が一日にして決してしまったことから果たせぬ夢となってしまったようです。(。´・ω・)。゜
”目の離せぬ抜け目ない輩” そういう意識は自他ともに認めるところでしょう。
”天守はまずいな・・・” 自然な発想ですかね。
大手も桜を待っているようです。
その足で西新に出向きます。
学生時代に行った一膳めしやを探します。 減っているようですね・・・
「朝美食堂」に入ります。
ここ大将がこわいんですよね・・・って昔の方がもっと怖かった気がします。 ママは美人でそのままでした。
店は結構客が入っていました。 一瞬ちゃんぽんをとも思ったのですが、頼んだのは刺身がついて腹一杯になる定食680円でした。
やす~ 当時いくらだったか覚えてませんが、スケールとしては変わらんでしょう。食えなかったんですよね~当時・・・こんな高級品。
なつかしがってても仕方ありません。 もう帰りましょう。 焼き鳥「清正」が残っているのを見ましたが、さすがに焼き鳥屋はまだ早いですね。
商店街も大分こぎれいになったようです。
狭い道路にリヤカー部隊は健在でした。
おばちゃん買おか~♪ ・・って思ってみるだけ・・・