おせっちゃんの今日2

こちらでお仲間入りいたします。
よろしくお願いいたします

今日は・・小さなお友達

2023-06-14 14:33:34 | 知人友人

梅雨空にウオーキングに出かけるのを躊躇します。昨日は午前中おせっちゃん天気予報官の見立てでは降らない気がしました。矛盾していますが、洗濯物は内干しにして、晴雨兼用の傘を手にウオーキングに出かけました。
公園は人が少なく、ガランとした解放感があります。ワンちゃんも少ない感じ。

ひとりぼっちが割に好きなおせっちゃんはお天気病か、快調とは言えませんが、とにかく歩き始めました。
おや、あれは・・・半年前までは毎日のように会っていた。小さなお友だちです。とても愛嬌のある子で、転んでも決して泣かない活発な男の子です。いつもじいじがお守を引き受けていらっしゃるようでした。顔なじみになっていました。4月から、アメリカンスクールの幼稚園に入ったとか、トンと会えなくなっていたのです。

ママはお勤め、ばあばが家事、じいじがお守を引き受けているのだそうです。久しぶりに声をかけるとじいじが「Tくん、ばあちゃんがいたよ。覚えているでしょ」。ニコッ!!かわいい!!

Tくんはお砂場へ、ばあちゃん(おせっちゃん)は2周め、ぐるりと回るとまだいた。おじいちゃんとというか、Tくんとというか、休憩かたがた立ち話。
まだ慣れないので幼稚園は週3日なのだそうです。
Tくん、おなかがすいたかな。小さな容器から小さなお菓子をつまんで食べ始めました。なんだかためらっているよう。お菓子をつまんではばあちゃんの顔を見る。「美味しそうね。ママが入れてくれたのでしょ。よかったね」。

お菓子をつまんだ手をみつめて、決心したようにばあちゃんのほうに差し出す。え??くれるのかな?と思っているうちに小さな手が近づき、お菓子はわが口に入れられていました。まあ、これ以上の親愛の情表現は・・・。

何だか一日心明るく。


あなた、どうなさる?

2023-05-03 13:41:40 | 知人友人

今日のお話は「知人友人」と言っていいのか?、困ることだらけの話。

一昨日のこと。いつもの道を買い物袋をよっこらしょと下げ、少し登り坂を息荒くのぼっていました。
向かいから女性が近づいていらっしゃいました。あ、右に寄ろう、と思いました。その方、私が避けた方に方向転換。おいおい、それではぶっつかるよ。

どうも、私に話しかけられるよう。近頃目が見えなくなってきたとはいえ、大体のシルエットで不都合を感じたことはなかったぞ。向こうさんが人間違えかな?
軽く頭を下げて、すれ違おうとしました。
「もしもし、こんにちは。懐かしいわ、・・・え?おわかりになりません?」
全く分からないのです。コロナ時代は、こんな時、言い訳はたやすい。
「あら、ごめんなさい、マスクとメガネ、おみそれしました」
「ほら、子どもが同学年、始め私立の幼稚園に行って、年長組は新しく出来た区立にかわったではないですか」。
さあ困った。全く分からないのです。私は他人の名前を覚えるのは苦手で、時間がかかるのですが、一度親しくなた方はきちんと覚えている人なのです。でもこの方は?向こうさんは、これだけいったら分からないはずはない、もう思い出したものだと話を進められる。困った、困った。
どうにか誤魔化して誰にでも合うような思い出話で調子を合わせ
「また、お目にかかった時はお声をかけてくださいね」と誤魔化す。
「公園でお見かけしていたのですよ、今度は声かけますね」と。手を振ってお別れする。

山口で大学に通っていた時、これに似た経験をしたことがあります。下宿先の母の里は、大学から徒歩30分はかかるところで、あまり人通りのない田舎道を歩くのでした。
同い年くらいの女性を追い抜こうとしました。会釈して抜いたと思った瞬間、おせっちゃん(苗字でしたが)と呼び止められました。え?どなたかしら、こんなところに知り合いはいないはず・・・と思いましたが、あまりに親しげに、分っているのが当たり前と、話しかけてくる人に、ことさら名前を聞くわけにもいかず・・・

途中の分かれ道で、「わたしこちらへ・・・」と手を振って行かれた人に、何とも奇妙なホッとした気持ちを抱いたのでした。同じ道を通学したのですが、その後も一度もお会いしませんでしたが・・・

こんな時、どうしたらいいのでしょうね。勿論、早いうちに、さらっと「ごめんなさい、お名前が出てこないのです」とか「どちらさまでしたかしら、物忘れが激しくてごめんなさい」と聞いてしまえばいいことは分かっています。でもその場の会話で、時は過ぎ去り、いまさら聞けないという時・・・困りますよね。困りませんか。

後者の話、分かれ道でその人が遠くなった時、悪いけれど、ほっと安堵したことを思い出しました。

あ思い出せない、と思ったら、そのままの気持ちで、素直に聞くことなのでしょうね。


じいじフレンドの同人誌

2022-11-10 16:29:30 | 知人友人
昨日、「じいじフレンド」と呼んで時々このブログに登場してもらう男友達から同人誌が届きました。大学時代の一年先輩の男子です。彼は高校生時代から、小説家を目指すほどうぬぼれてはいないけれど、と言いながら、好きでずっと書き続けているのです。卒業して、お互い社会人になり、結婚もして、しばらくお付き合いはなかったのですが、いつの頃からか、自分の作品が載っている同人誌「飃」を送ってくれるようになりました。60年以上、会うこともないお付き合いですが、いい友人です。

その「飃」が号を重ねるごとに、薄っぺらになってくるのです。一人旅立ち、二人天国へ行き、作品が届かなくなるのだそうです。そして以前は新人が入ってきたものでしたが、このところは加入者はないのだそうです。「寂しき限りだ」と嘆いています。若いものは、小説、詩歌より、劇画でしょうか。

何年前でしたか、世の中パソコン・スマホ時代。高校生に、文学作品を教えるより、勤め先で役に立つように、実利的なものの処理方法などを学ばせるほうがいいのではないかと、文科省関係で審議されることがニュースとして取り上げられました。
それを読んで私はびっくり、腹立たしさを感じました。彼は大学卒業の後は、高校国語教師を勤めあげました。定年後も、請われて10年近く非常勤講師として勤めていました。

「これどう思う?これでいいの」意見を聞く手紙を出したのでした。
「馬鹿な!実利だけできて、人間の人間たる情の部分を失くしてしまって、いいわけがない。干からびた干物になってしまう」と怒りの返事がきました。
だからと言って二人とも、無力な人間です。ミミズのたわごと、ぶつぶつ言うだけで日常に埋もれてしまいました。
確かに、私達の時代の「マンガなんか読まないで・・・」と一段低く考えられてものとは違うものになってきているのでしょうけれど・・・・。

彼は今、奥さんが入院をしていて、これが難しい病気らしく、一人で留守番をしているようです。田舎のことで、親族、子どもが近所にいて、良く面倒を見てくれているとありがたがっていて、無事なようです。
半年前になるでしょうか、届く手紙が字が乱れ(彼は達筆なのです)文も同じことの繰り返しで、老いたなあと心配していました。創作が彼の気を奮い立たせているようです。この度の「飃」の作品も、短編ながら、昭和の瑞々しい若者たちの傷ついたり、慰めたり、失望したり、恋もあり…の小品に纏められていました。良し、大丈夫だ、とポストに手紙を入れてきました。

奥さんが退院してくるまで、頑張るんだよ、応援してるよ!!

じいじフレンド

2022-04-18 13:46:40 | 知人友人

もう2か月も前のことになったでしょうか、「じいじフレンド」から、メールが入りました。まだウクライナの戦闘が起こっていない時だけに、話題は、誰もがコロナコロナ。
でも彼のはさすが・・・という書き出しでした。

コロナ?  聞いたような名前だなあ。そういう日がこないかなあ。U市は少し休息したらしい。でもふた桁。気をつけようもないし。でも気を付けます。

私が勝手に「じいじフレンド」と呼んでいる友人は、大学時代の一学年先輩のです。高校生の頃から小説を書いています。同じ研究室に籍を置いているときは「山国」という同人誌をガリ版で出していました。私は半強制的に勧められて書いた一作であきらめましたけれど、彼はその前後もずっと書き続けているのです。大学を離れてからは住んでいるU市で、集まって同好の人たちと「飃」という同人誌を続けています。年3回発行のものが、回を重ねて119号まで出ています。

大学を離れてから、私は転勤を重ねる夫について引っ越し、交際も絶えていましたが、彼が還暦祝いに自費出版をした本を贈ってくれた時からお付き合いが復活したのです。送ってというリクエストに応えてずっと届けてくれるのです。もともと才のない私のこととて、読後感もろくに書けず、いい加減なものを書き送るのですが、それでも枯れ木の賑わいにはなるのか、喜んでくれます。
「飃」も同人が皆年を取り、抜ける人もあり、勢いがないんだよと、ぼやきながらも、次の号、また次の号と創作熱は滅びません。

こうして彼のことを書いていますと、学生の頃のことを思い出します。まだ復興が十分でなかった、地方大学です。先ず、教授が足りない状態でした。教科書もろくなものはなく、学問をするというより、仲間意識を高めて遊ぶという状態でした。今ではその時代が輝く思い出になっていますが。だから、コロナ禍で、大学生は名ばかり、もっぱらリモート授業、友人ともほとんど会えないなどというここ3年ばかりの授業は、やはり何か大事なもんが抜けてしまっていないかと、思うのです。

授業中、メモ用紙が教授の目を盗んで手渡されます。何かと思えば、落語の落ちまがいの言葉遊びの走り書き・・ということも楽しみだったのです。

テストもカンニングなどこと荒立てることもなし、でした。上からいくらでも下の人の答えが見えるでしょ、という階段教室で受けたこともありました。まだ少なかった女子は比較的真面目に勉強していました。私もそう思われていました。
朝試験場に行くと、階段の一角に仲間が集まっています。私が教室に入るや否や、「こっちこっち」「ここ席とっておいたよ」。大もてです。
「見てもいいけど、正解か否かは保証しないよ。それから、丸写しは止してね」
「ああ、任しといて。文章力は俺の方があるから、下書きを添削して花丸解答にするから」。そんないい加減なテストでした。

習ったことのほとんどを忘れてしまいましたけれど、じいじフレンドとのお付き合いと、こうした思い出が、宝物の私です。

 


賀状で知らされたご逝去

2022-01-22 13:17:03 | 知人友人

1月も半ばを過ぎ、お正月気分もすっかりなくなった20日、郵便受けに年賀はがきが届きました。え?文面を見ると印刷の文面の余白に
「妻、Tが令和2年逝去いたしました」とのハガキでした。
びっくりしました。Tさんは、私が社会人になって勤めた初めての受け持ちの生徒さんの一人です。体調が今一つ整わず、年賀状もきちんと整理していませんでした。申し訳ないのですがTさんから来ていないことにも気が付かないでいました。初めての担任の生徒さんですから、多分5・6歳しか年は違わず、それでも当然年下の方です。お悔やみも申上げないでいたのだと悔んだことでした。

勤務した女子高校はいわゆるすべり止めの私立の高校でした。こう申しては失礼なことですが、キリの方の生徒が多い高校でした。中でTさんはどうして県立に行かなかったのかなと思う成績のいい子でした。受け持っているうちにだんだん解ってきたのですが、なにか家庭の事情で、四国の自分の家を出て、H市の親せきの家に預けられてそこから通しているのだということでした。

高校3年間はその状態を続けて、卒業と同時に四国の実家に帰るとのことでした。
「先生、四国に帰る前に、一度先生のお宅に遊びに行っていいですか」とのこと。二つ返事で承諾しました。母も歓迎すると茶菓子など用意して待ってくれました。

待てど暮らせど来ないのです。変だなあ、変だなあ、と待っていましたがとうとう夜になっても来なかったのです。今のように携帯はありません。それどころかわが家には電話もありませんでした。

翌日出勤しました。学校で待っていた報せが昨日わが家に来る途中で交通事故にあったという報せした。世話になった親戚の男の子を連れてくる途中、道路端に止められていた車の後ろに後ろから来る車を避けたところ、その車が突っ込んできて、男の子を庇った彼女は車と車に挟まれてしまったというのです。
慌てて病院に駆けつけましたが、幸いにも命は助かり、口も効ける状態になっていました。うわごとのように「I先生I先生と呼んだのですが知らない先生が来てくださったのです」と小さな声で言うのです。Iという名字の、運動部などで活躍なさっている方が他校におられ、その男性先生が駆けつけられたとのことでした。

そんないざこざがあって、ゆっくり話を聞くこともなく、別れを惜しむこともなく、彼女は実家へ帰ってしまいました。年賀状・暑中見舞いはやり取りして、結婚したことも知らせを受けましたけれど、大阪で暮らす彼女とは疎遠のままになってしまっていたのでした。

謹んでご冥福お祈りいたします。合掌。