おせっちゃんの今日2

こちらでお仲間入りいたします。
よろしくお願いいたします

じいじフレンドの心配

2022-01-08 13:33:40 | 知人友人

昨日、ごたごたしていてメールを開くのが夜になってしまいました。10時も過ぎて開いてみると「とうとう」のタイトルでじいじフレンドからメールが入っていました。

「コロナが山口にまで来た。ただ、県東部だから今すぐどうなるということはないだろう。しかし、少し不安、いや、怖い。半端じゃないね」

そう、山口県は地方都市で、今までさしてひどい感染爆発もなく、ワクチン接種は素早い動きだったし、ほとんど平常に暮らしていて、むしろ東京に住む私の方を心配してくれていたのです。それが岩国の基地から外の日本の居住区に広がってきたようです。
私も故郷のことで彼を始め、娘が嫁いでおり、兄たちも実家にUターンして暮らしています。学校時代の友人も。ニュースで発表される数を見ては心配しておりました。
夜少し遅すぎるかな、と思いつつ返信のメールを打ちました。

「オミクロンは威力はあまり無いようと伝えられていますね。信じたいです。
とにかくお家に籠って孤立して暮らせだと。気を付けてください。
まあそのうち3回目のワクチンが動き出すでしょうし、飲み薬も使えるようになるかな。それまで自力で生き延びましょう」

昨日の朝日新聞「朝日川柳」にこんな句が採られていました。

あらためて敗戦国と思い知る

日米地位協定はいろいろ不平等なことはあるし、「思いやり予算」などという名目で(ああ表現が変わったのでしたかしら)日本はかなりの出費も引き受けているのです。かの国では、守ってやっているのだからというのかもしれないけれど。これは今はとやかく言うまい。でも、世界中がコロナと戦うのに力を尽くしている時です。日本が水際作戦で、必死になっていることもご承知のはず。そんな時、検査もしないままの兵隊を送り込むのですか。蟷螂之斧でしょうか、でもきちんと言うべきは言うことが大切ではないのでしょうか。

幼稚な言い草ですが。


岸野承展 ご紹介

2021-03-05 14:20:42 | 知人友人

素晴らしい彫刻の個展をご紹介いたします。
岸野承氏は水墨画家岸野忠孝氏のご子息です。
岸野忠孝氏が私と高校が同期の方です。お子様方が皆芸術の才を発揮され、承氏は彫刻の道を歩んでいらっしゃいます。父上が同期という御縁で、個展を開かれるときには案内状をくださいますし、私も目の保養に、心打たれる作品を見せていただきに出かけるのです。

ところがここにもコロナの影響です。折角ご案内をいただきながら、高齢者が感染を広げ、病室を埋めることになってはと、家に閉じこもることになってしまっているのです。昨年は陶芸家の寛氏との兄弟2人展もあったのですが、涙をのみました。
まさに今、銀座一穂堂(銀座 1-8-17 伊勢伊ビル3F 03-5159-0599・5日~14日 事前にアポイントをお願いします)で個展が行われています。
緊急事態宣言が延長になったこともありまして、この度も、私はお家生活です。残念です。
自分が行かないのに・・・ですが、もしもお出かけのついでがありましたら、そしてご興味がおありならご覧になってくださいませ。

無断ではありますが(岸野様、お許しください)いただいた案内のパンフレットから一枚写真をスキャンしました。

 


「だいたらぼっち」を口実に

2021-01-30 16:17:34 | 知人友人

昨日、Kさんから電話をいただきました。「だいたらぼっち」と「区民センター・コミュニテイー」の委員を一緒にした友人です。先日記事にいたしましたが「だいたらぼっち」は100号でひとまず長期休刊に入っていますが、その縮小版を発行しようという話し合いになっているのです。Kさんは委員長を長く務められましたので、巻末にご挨拶文をとお願いしてあるのです。
それの下書きができた、皆で読み合わせする前に、おせっちゃん、ちょっと目を通してくれる?というのが電話の要望でした。いかにも必要な用事のようですが、おしゃべりがしたくなったというのが正直なところだと、自分の気持ちの動きを自覚しながら思ったことでした。確かにおしゃべりに飢えているのです。

マスクはしっかりかけていきました。通された居間には、大きなテーブル、それに斜めに向かい合って小声を意識しながらのお喋りです。

まず原稿を見ながら添削。これは何年も委員会で読み合わせをしていたので、文殊には一人足りませんが、二人でああだこうだと言っているうちにまとまりました。
お茶とお菓子は、マスクを外して素早く頬張りました。

Kさんのご主人は3年以上の闘病の挙句昨年亡くなられました。Kさんは気丈にも、余命1年と言われていたのが3年生きてくれたのだし、その間に覚悟のようなものもできていたからと、明るく前を向いていらっしゃいました。悲しい思い出と、前向きの笑い話と行きつ戻りつでしたが、おしゃべりはかけがえのない元気のもとです。Kさんより、私の方が慰められたのかもしれません。

「だいたらぼっち」はいい口実でした。


年賀状

2021-01-06 14:37:25 | 知人友人

ちょっと遅れてくる年賀状もそろそろお仕舞のようです。虚礼だとか、形式のみだとか言われたりしますが、やはり新年の朝これは嬉しいものです。日頃親しくはしていなくても、これでお互いの無事を確かめ合うという意味が、ますます大きくなってきました。

まず12月。喪中欠礼が入ります。祖父が祖母が‥が父が母が・・・に変わり、しばらく平穏な年が過ぎていきましたが、今年(昨年12月)は連れ合いが‥が急に増えました。そんな年代になったのだなあとつくづく自分の歳を改めて思い知るのです。

それを拭い去るような近況報告はこちらまで嬉しくなります。高校同期の男子から、山に登る、自転車で走る、ランニングで老いを追い払っているという意気盛んなものもいただきました。

年賀状に書き加えられた一言の自筆の言葉、嬉しいものです。今年はコロナ終息,明けない夜はない、の希望を書いたものが特に目立ちました。本当にみんなの願いですよね。

ところでこのブログを書こうとパソコンの前に座ったところに、電話がかかりました。最近は留守電にしておけ、迷惑電話には出ないことが第一などと指導されますが、私はそれは嫌っています。ただ、以前は「はい、Sです」と出ていたのを、味もそっけもなく「はい」だけで受けるのです。

今日のは違いましたよ。まったく久しぶり、小学校からのお友だちでした。山口県からです。私は例年のように賀状を出したのですが、彼女は昨年の賀状を参考に書くらしく、それに私からのものに「山口に帰ります」と書いてあるのだそうです。きっと東京を引き上げて、山口に帰ったのだと思って、新住所がわからず失礼したというお詫びの電話だったのです。私にはこの「山口に帰ります」のハガキを書いた覚えはないのですが・・・。何処でどういう風に、混線したのか分かりませんが、思いもかけない旧交を温め合いました。、電話で繋がっておしゃべり出来ました。嬉しいふるさとの言葉です。

友達っていいな。


悲しいお知らせ

2020-12-04 16:14:17 | 知人友人

師走の日々もひらりひらりと過ぎていきます。コロナという家来を連れての速足です。
先日から年末の悲しいお知らせ・喪中欠礼が配達されます。日々の生活ではほとんど会う事もない、友人知人であっても、思い出はよみがえり、しばらく言葉を失います。

中でも、昨日のハガキには呆然としてしまいました。まさか悲しみのハガキが来るとは思っていない方だったのです。
高校のクラスメートで、お医者様と結婚した人がいます。整形医でいらっしゃいます。東京近辺に住んでいるもので、身体を痛めたものは、ここを頼るのです。混雑している受付も、友人ということで、事務長のクラスメートが上手く割り込ませてくれますし、先生も親身に手当てしてくださるのです。「名医」でした。私どもの駆け込み寺でした。
その名医様が亡くなったというのです。
この春、3月末で医院を閉めるとお知らせがあったのです。名医様も歳をとられたのでした。でも私の頭にはお元気なお姿が浮かびました。引き止められて医院を続けていらっしゃったけれど、いよいよお止めになり、あとは奥さまと旅行でもしていらっしゃるかと思っていたのです。引退なさって、3か月ほどで亡くなったのです。しばし思い出に浸り、ご冥福を祈るよりほかありませんでした。

もう30年も前のことだったでしょうか、私はウオーキングを思い立って実行し始めました。まだ若かったのですね。やり始めるとのめり込み、一寸度が過ぎたようでした。とにかく一歩も歩けない状態になりました。駆け込み寺頼みです。

「とにかくいらっしゃい。千代田線1本で来られるのだから、少し遠くてもうちの名医にみてもらおうよ。来るだけ来れば、帰りは歩けるようになるから」。確かに帰りは少しの痛みはありましたけれど、一人でバスと電車を乗り継いで、帰ってきたのです。今から思えば、神経ブロックだったのだと思います。一瞬跳び上がるほどの痛みでしたが、治ったのです。まさに名人芸でツボにはまった注射1本だったのでしょう。

2年半前、私は脊柱圧迫骨折を起こし、ヘルニアを発症しました。夜中に救急車で運び込まれ、5週間入院したのでした。病院を探しても、受け入れてくれる医院が見つからず、5つ目の救急病院に押し込められたのです。そこは救急の患者のための病院です。5週間たったら追い出されるように退院させられました。痛みは尋常一応ではなくさてこれからどうしたものやら、と思い悩んだことでした。

駆け込み寺です。電話しました。救急病院では主治医は手術は進めませんでしたが、若い医師はこれほどの痛みがあれば手術手術!!と言っていました。素人にはどうしたらいいのか分かりません。事情を訴えたことでした。その時の名医のお言葉。
「この年になって手術なんて考えないこと!気を明るく持って、馬鹿話をして、上手いものを食っていたらそのうち治ります。遊びにいらっしゃい、ご馳走しますよ」

この明るい言葉に救われました。名医なき今からも、しゃべって、食って、生きていこうと思います。
名医様、ご冥福を祈ります。ありがとうございました。