おしょうしな満腹日記~伊豆のお家ひまわり~

米沢スキー場ペンションおしょうしな跡地です。
2019年より大室高原オーシャンビューの一軒家ひまわりを営業中

米沢の歴史案内~11米沢織

2021年06月22日 | 米沢の歴史案内
米沢を代表する伝統産業といえば、真っ先に浮かぶのが米織(よねおり)ではないでしょうか。

おしょうしなガイドの会新人女子の勉強会梅組6月の研修会前半は、上杉神社からほど近い米織会館で米織について学びました。




米織会館の建物はレトロな雰囲気。ここからも米織の伝統を感じます。

一階はショップと機織り体験コーナー。二階は米織資料館。
今回は米織の織元の一つ、㈱安倍吉さんのご主人が直々に米織の歴史と現在についてお話をしてくださいました。


武家の内職
長年に渡って財政がひっ迫していた米沢藩。苦しい藩財政を立て直すために、9代藩主上杉鷹山公が武家の婦女子に内職として機織りを習得させたのが米織の発祥です。
当初は麻織物だったものを絹織物に移行。出羽の米沢織として全国的に名を馳せるまでに成功しました。


米織を扱う小売店に与えられた証明書。

化学繊維の先駆け
大正時代には米沢高等工業学校(山形大学工学部)の教授秦逸三(はたいつぞう)が“日本で初めて”人工絹糸(レーヨン)を発明。米沢市内に帝国人絹株式会社(現在の帝人株式会社)が創設され、全国に先駆けレーヨンなどの化学繊維の生産が始まりました。昭和30年頃から化学繊維を使った洋服が一般的になると、米沢は呉服と洋服生地の2つの産地として評価を得たのです。


紅花染め


山形県が全国一の生産量を誇る紅花
華やかな紅花染めの工程も学ぶことができました。

昔の織機を使った機織り体験コーナーで、梅組組員も米織作りに挑戦しました。


慎重さと根気のいる仕事。
昔の女性たちは偉大です( ;∀;)


米織紹介ビデオ(10分程度)

ショッピング


米織会館併設のショップは高級な反物からマスクなどの雑貨まで幅広い品揃え。
しかもお値段は全般に市価よりお安くなっています。
特に女性の皆様には観光で米沢を訪れた際にぜひ立ち寄ることをおススメします。



気軽に着ることができるツーピース式着物はレンタルして街歩きも可。
これは外国人観光客に喜ばれそうです。

終わりに
現在米織関連の企業は市内に約70社。
染色、縫製など様々な繊維産業が集積・連携し時代の変化に対応しながら、現在も米織ブランドはしなやかに輝き続けていることを肌で感じることができました。

以上、最後までご覧いただきありがとうございました。


*******
追記:織元さんのお話メモから

・蚕の進化
蚕は養蚕に適したように品種改良を続けた結果、本来の夜行性から昼行性に変化。そして昔よりはるかに体が巨大化しているそうです(゚д゚)!


・本物の黒の下地は紅色
最高級の黒色布地は、驚くことに下地として紅花染の紅色を8回も重ねて染色。そのうえに黒い染料を乗せて完成します。
礼服の色見本の黒色もその製法で作られているとか。
〈紅花の紅を秘めた本物の黒〉
一度この目でその黒色を見てみたいものです。


・研修の後日、改めて米織会館を訪ね米織のカードケースを買いました。
男性ものの袴用生地を使用して、米沢市内の養護学校の生徒さんが作った製品です。



おしょうしなガイドの身分証を入れて、米沢の歴史を案内するガイド活動の際に使っています。



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米沢の歴史案内~10義民・高梨利右エ門

2021年06月15日 | 米沢の歴史案内
米沢で生まれ育った私ですが、恥ずかしながら高梨利右エ門の名前を知ったのはごく最近のことでした。

数か月前、おしょうしなガイド新人女子の仲間と米沢市内上郷地区、長手の古刹桃源院を訪ました。そのとき案内してくれた先輩ガイドが桃源院境内に置かれたお地蔵様を指して“これは高梨利右エ門ゆかりのお地蔵様”と言われたのです。

高梨利右エ門って誰ですか?とその先輩に尋ねると、このような話を教えてくれました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

その昔、米沢藩の過酷な年貢の取立てに苦しんでいた屋代郷二井宿の肝煎り高梨利右エ門は、江戸に赴き幕府に米沢藩の暴政を直訴した。利右エ門の訴えは無事幕府に聞き届けられた。しかしその後利右エ門は米沢藩により磔の刑に処せられた。

処刑当日、籠に乗せられ二井宿の処刑場まで連れてゆかれた利右エ門一行。道々では付近の住民が皆涙しながら行列を見送った。その行程で休憩した6か所に後世それぞれお地蔵様が作られた。

また学業の神さまで有名な高畠町の亀岡文珠にも高梨利右エ門も供養塔がある。しかしその供養塔には米沢藩を憚って高梨利右エ門の名前は無く、その代り「極悪人の碑」とだけ刻まれている。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この日知った高梨利右エ門の話は、その後もずっと私のなかで印象に残っていました。
そしてその後たまたま夫が伊豆から帰省していたある日の朝、夫がちょっとした用事で高畠町方面に行くというので、ついでに私も車に同乗して一緒に高梨利右エ門の六地蔵めぐりをしてみようと思い立ったのでした。

といっても桃源院以外の五つのお地蔵様がある場所についての資料は桃源院のお地蔵様のそばに設置してあった案内看板の文章だけ。ほぼおおまかな地名しか分かりません。

それでもなんとかなるだろうと(笑)、勘を頼りに出発です。






1、米沢市川井・桃源院境内


2、長手・梓川橋のほとり



3、高畠町馬頭・馬頭橋ほとり


4、高畠町亀岡・三の分かれ目


5,高畠町泉岡・松岩院境内



途中には、亀岡文珠に立ち寄って高梨利右エ門の供養塔にも参拝。

ガイドの先輩が言われていた通り、碑自体には高梨利右エ門の名前はありません。

こちらは二井宿小学校の裏にある高梨利右エ門報 大酬恩碑 

碑の右わきにしゃがみこんで石板を読んでいる夫と比べるとこの石碑のなんと巨大なこと。。。


ここまではとても順調にお地蔵様を見つけながら進むことができました。
ほとんど迷うことなく5か所のお地蔵様を探し出せたのは、ひとえに人一倍勘がいい夫のおかげです(笑)
私一人だったらここまで来るのに丸三日くらいかかったと思います(汗)


ところがこの先、利右エ門が処刑された場所にある最後のお地蔵様を見つけるのが大変でした。
処刑場の場所がネットの地図に載っていないのです。
そこで、畑で仕事をしていた人や郵便局の職員さんなど地元の方々に教えてもらい、車一台分しかない狭い山道にヒヤヒヤしつつ(;'∀')、なんとか処刑場を探し出しました。


一の坂処刑場への登り口

登山靴を履いてくればよかった、と一瞬後悔。
でも処刑場はここから僅か十数メートル歩いただけであっけなく到着しました。よかった~(涙)

高畠町二井宿古道・一の坂処刑場跡
高梨利右エ門が処刑された利右エ門最期の地です。



六個目、最後のお地蔵様

自らを犠牲にして地域の人々のために命がけの訴えを敢行した高梨利右エ門の御霊に二人で祈りました。


おわりに
高梨利右エ門ゆかりの六地蔵はどれもきれいに手入れされていて、なかにはお地蔵様の前に真新しいお供えのお菓子が置かれているものもありました。
又後日調べたところ、二井宿小学校にある巨大な酬恩碑は長い歴史のなかでときの権力によって何度か破棄されたものの、その都度住民が再建し現在に至っているそうです。
高梨利右エ門伝承がこの地域でどれほど大切に受け継がれ続けているかがうかがわれます。

ちなみにこのゆかりの地めぐりのあと、二井宿から県境を越えて宮城県七ヶ宿町のお蕎麦屋で昼食を取ったのですが、その蕎麦屋のご主人も高梨利右エ門のことはよくご存じでした。以前高畠町で開かれた高梨利右エ門の慰霊祭にも出席されたとか。









七ヶ宿町の蕎麦屋まるいちさん。
お蕎麦はもちろん、山女の姿揚げ、山菜の天ぷらも美味でした😋


旧屋代郷に今も受け継がれている高梨利右エ門伝承。
機会をみつけてこれからも追いかけていきたいテーマです。


以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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米沢焼「鳴洲窯」へ

2021年06月10日 | 米沢の歴史案内
米沢唯一の焼き物、米沢焼「鳴洲窯」(なるしまがま)の窯元を、先日ガイド仲間で訪ねました。



市内西北部の成島地区、のどかな山里のなかに鳴洲窯はあります。
この日は窯元の奥様が米沢焼についてのお話を聴かせてくださいました。

成島焼は第9代藩主上杉鷹山が興した地場産業の一つ。
元々は茶碗や漬物用の甕など米沢領民の生活に密着した陶器を幅広く生産していました。近代になって途絶えていたものを、現窯元水野哲さんが昭和50年に「米沢焼」として再興されました。





ショップには茶碗、お皿、お猪口などがところ狭しと並びます。

また、窯元のご子息も陶芸家とのことで、店内にはご子息の作品も置かれていました。




武者と女の子、どちらもキリっとした目元が印象的です。

戦国武将、直江兼続☆


素朴な風合いの猫ちゃんに癒されます♡



当日いただいたパンフレットをクシャクシャにしてしまい申し訳ありません(-_-;)

鳴洲窯では陶芸教室も開催しています(要予約)。
作品は後日焼き上げ、自宅まで発送してくださるそうです。
旅の思い出に、米沢焼を自作してみるのも素敵ですね。




以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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獅子宿燻亭

2021年06月08日 | 米沢の歴史案内
前記事に書いた置賜地方即身仏めぐりの小旅行の途中、昼食に立ち寄ったのが長井市上伊佐沢の獅子宿燻亭(ししやどいぶしてい)さんです。

のどかな田園地帯にある、歳月を経た堂々たる建物にまず圧倒されます。




外壁の巨大獅子頭にまずびっくり






寺社にあるような龍の彫り物の門をくぐり屋内へ



黒光りする廊下
この建物は昔の養蚕農家のお宅を改造したものだそうです。

経営者が獅子頭を作る職人さんとのことで、屋内の至るところにも獅子頭が展示されています。


地元の獅子舞を再現した素晴らしいジオラマ。
これもまた素晴らしい作品です。








展示されている品々を夢中で見ているうちに注文した食べ物が運ばれてきました。




手打ちそばにつきたてのお餅のセットです。
お餅は餡子、くるみ、ごま、じんだん、納豆と一度に5種類も!
なんて贅沢なのでしょう!わーい\(^o^)/

小鉢は蕗の煮つけとお漬物、どの品にも心のこもった手作りの味がしました。

この土地の豊かな歴史を感じる建物&工芸品の数々と美味しい料理で、身も心も満たされた獅子宿燻亭さんでした。


以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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米沢の歴史案内~9即身仏を訪ねて

2021年06月02日 | 米沢の歴史案内
「即身仏」をご存じでしょうか?

自分の意志で食事を絶ち、生きながら土に埋もれ、ミイラとなった僧侶たちの亡骸が即身仏です。
ここ山形県南部、置賜(おきたま)地方には二体の即身仏が現存しています。

ボランティア観光ガイド「おしょうしなガイドの会」の新人女性の集まり<梅組>の研修の一環で、先日この二体の即身仏を訪ねました。

*お断り
即身仏は現存する生々しいミイラですので、この記事では当日拝見した即身仏そのもののお姿の写真を掲載することは遠慮いたします。悪しからずご承知ください。


1,子孫が守る即身仏
先に訪れたのは米沢市内簗沢の明海上人です。
即身仏は通常地域のお寺に祀られていますが、この明海上人は子孫が個人で管理している日本唯一の即身仏です。
明海上人のご子孫松本さんが自ら出迎えてくださいました。

明海上人は江戸時代貧しい農家の長男として生まれましたが、不幸にして15歳のときに失明します。
その後仏門に入り厳しい修行を続け、地域の人々からの崇敬を受けながら44歳で亡くなり即身仏となりました。




明海上人が祀られているお堂
上人は生前もこの場所を本拠地としていらしたそうです。



護摩壇の跡


護摩壇の隣にある井戸



広く崇敬された明海上人が移動に使ったの輿の一部。
お堂の別棟に展示されていました。



同じく別棟に展示されていたこちらの写真は、おそらく昭和57年(1982年)、当時の新潟大学にて修復作業を終えて戻ってきた明海上人を迎えた地元の皆さんの様子かと思われます。

明海上人のお堂は通常閉じられていますが、お堂の外から拝観可能です。




2,“町おこし”で発見された即身仏
明海上人のお堂をあとにして、次に訪れたのが白鷹町黒鴨の蔵高院・光明海上人です。
光明海上人を管理している常安寺の住職から詳しく解説をしていただきました。

光明海上人は若いころ腕のいい猟師でしたが、その後仏門に入り嘉永7年(1857年)、即身仏になるべく「100年後に掘り起こせ」と言い残して土中に入りました。ところがその後光明海上人の塚がある集落そのものが消滅してしまいました。そして「100年後に掘り起こせ」という光明海上人の言葉は実行されないまま歳月が流れます。

しかし昭和53年、当時高まっていた“町おこし”のテーマとして白鷹町では即身仏光明海上人の存在が浮上。光明海上人が入ったと伝わる塚の学術調査が始まり、お骨と遺品が収集され、修復作業を経て光明海上人は塚のふもとのお寺蔵高院に安置されました。

光明海上人の拝観は前日までの予約制です。




ちなみに写真に写っている石は、蔵高院のすぐ脇を流れる川で採取される黒い石。
上杉鷹山による産業振興策の一つとして、この石材を活用した硯(すずり)造りが長く伝承されていたそうです。


おわりに
この日二体の即身仏をこの目で拝見し、関係者の話を伺っていくなかで、かつて生身の人間だった二人の僧が即身仏になろうとした理由がますますわからなくなりました。
色々思いをめぐらせているうちに、二軒目の蔵高院では写真を撮ることさえ忘れてしまいました。
最後に気が付いて唯一撮らせていただいたのが上の一枚です。

超人的な荒行を重ねた末に即身仏を目指した上人たち。
彼らの胸の内を推し量ろうとすること自体が無謀なことなのかもしれません。




以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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