おしょうしな満腹日記~伊豆のお家ひまわり~

米沢スキー場ペンションおしょうしな跡地です。
2019年より大室高原オーシャンビューの一軒家ひまわりを営業中

歴史・鮭グルメ・フォトジェニックな街並み☆村上への旅

2023年08月07日 | 米沢の歴史案内
2023年7月中旬、所属しているボランティアガイド団体「おしょうしなガイドの会」の研修で、新潟県村上市を訪ねました。

3年前「おしょうしなガイドの会」に入会した直後にコロナ渦がはじまり、会の活動はほぼストップ。
その後徐々に活動が再開されていき、今回が私にとってははじめての研修旅行。
まさに遠足前の子供のように楽しみにしていたバス旅です!


米沢から村上までは国道113号で約1時間半。
行きのバスの車中でガイドの先輩方が講義が交代で講義を持ってくださいました。
・戊辰戦争時の米沢軍と新潟
・新潟の石油採掘の歴史
・阿賀北衆(あがきたしゅう、新潟北部を本拠地とした武家たちの総称)の系譜

これらの講義を拝聴していると、これから向かう村上への興味がますます広がります。
車中のとても有意義な時間でした。

講義を聴いているうちに、あっという間に村上に到着。
地元のガイドさんに案内していだたきながらの最初の見学先は「おしゃぎり会館」
おしゃぎりとは、毎年7月に開催される村上大祭で引き回される山車のことだそうです。



展示されている華やかなおしゃぎりの数々に目を奪われます。


おしゃぎり会館のロビーにはご当地出身の北京オリンピックスノーボード金メダリスト平野歩夢選手のポスターも✨

おしゃぎり会館の二階では、歴代藩主の紹介など村上の歴史を学ぶことができました。

その後、隣接する武家屋敷、若林邸を見学。

屋敷の軒先に鮭がぶら下がっています。
そう、市内三面川(みおもてがわ)を遡上してくる鮭は村上の特産なのでした。
うちへのお土産に鮭を買って帰ろうかなあ。


村上は景観の美化に力を入れているようで、若林邸そばの小学校には黒塀、近くの郵便局も石造り趣ある建物。



街のマンホール、側溝の蓋にもご当地色が
↓一枚目は村上の“市の花”ハマナス。




ここから古い町街並みを残す商店街の街歩きです。
鮭料理の店井筒屋さん
なんてフォトジェニックな建物📷✨




味わいのある建物がそこかしこに。






信用金庫の塀も黒塀です。


こちらのお店(お店の名前の記録がなくてゴメンなさい💦)では、塩引き鮭を作る現場が見学できます。
天井から無数の鮭がぶら下がる光景は圧巻です。




楼門が見事な古刹、安善寺


お楽しみの昼食は「イヨボヤ会館」の鮭尽くし御膳。
(イヨボヤとはこちらの方言で鮭のことだそうです)






イクラちゃん♡

別添えの小鉢は鮭の氷頭(ひず、頭部の軟骨)なます


午後は村上城址へ

臥牛山という山の一帯が村上城。
山頂の本丸を目指し麓からら登頂開始です。
石垣の積み方が麓と山頂部と違うことも個人的に注目ポイントです👀


7月半ばの蒸し暑い日。
おそらく15分程だった山登りですが、正直とても長~く感じました。


石垣の割れ目に自生するヤマユリ。
その美しさに登山の疲れも忘れます。




ようやく山頂の本丸跡にゴ~~~ル

村上城本丸跡から眺める日本海


中世にこの一帯新潟県東部を治めていた阿賀北衆は、非常に独立心が強い武将たち。
村上城主だった本庄繁長も上杉謙信の臣下でありながら、謙信に大規模な謀反を起こしています。その反乱はおよそ一年に及びました。

繁長もこの場所で同じ海を眺めながら、きっと対上杉謙信の戦略を練っていたことでしょう。

興味深いことに、この反乱をようやく鎮めたのち謙信は繁長を許します。
一度反乱を起こしたとはいえど、うかつに取り潰すことが出来ないほど、繁長は傑出した人物だったのでしょう。
その後本庄家は代々重臣として、長く上杉家を支えます。

長い歴史
美しい街並み
伝統の鮭料理

村上の魅力を堪能した研修旅行でした。
この旅行のためにご尽力いただいた「おしょうしなガイドの会」の先輩の方々に深く感謝いたします。


最後までご覧いただきありがとうございました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

大室高原 オーシャンビューの一軒家 ひまわり

〒413-0231
静岡県伊東市富戸1317番地280
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会津若松へ〜上杉家の面影〜

2021年11月05日 | 米沢の歴史案内
上杉氏は米沢に来る以前の一時期、会津を領地としていました。
慶長3年(1598年)太閤豊臣秀吉の命により越後国から会津に移されてから、慶長6年(1601年)関ヶ原の戦いで西軍側だったことにより米沢に移封されるまでの3年間です。

11月3日文化の日、会津若松に住む友人を訪ねに行くという長女の車に便乗し、私自身は上杉家が支配していた3年間のゆかりの場所をひとり廻ってきました。

会津若松到着後、まずはレンタル自転車を借りるためにJR会津若松駅で娘の車を降ります。
駅前で大きなあかべこが出迎えてくれました。



~~~~~~~~~
目次
1,まぼろしの巨大城郭 神指城址(こうざしじょうし)
2,上杉謙信遺骸安置所
3,   直江兼続屋敷跡
~~~~~~~~~


1,まぼろしの巨大城郭 神指城址(こうざしじょうし)
  
最初に向かったのは会津若松駅から西に4キロ程にある神指城址。
上杉景勝が建造を始めたものの、未完に終わった巨大城郭です。

田園地帯のなかを自転車を走らせていると、浮島のように盛り上がった一帯に神指城址がありました。

城址の中心は深い草藪。さらに城址の一部は私有地らしく柵で囲われていて、奥深く立入ることは難しそうです。
それでも城址周囲をめぐってみると、神指城についての案内看板が見つかりました。



神指城の本丸予定地だったことを示す木柱。


城郭の西側には阿賀川が流れています。

現地の案内看によると、上杉氏はこの阿賀川を利用して旧領越後に舟を漕ぎ出し、さらに日本海~瀬戸内海と海運交易を展開することを目論みました。そこで阿賀川に接するこの場所に神指城を築城しようとしたのですね。
しかし関ヶ原の戦いが起こり、敗北した西軍側だった上杉は米沢へ移封され、工事途中だった神指城は未完成に終わります。
上杉の壮大な交易計画も実現することはありませんでした。


また、ここ神指城本丸内の如来堂は新選組ゆかりの史跡でもあります。
新選組隊士でありながら、後半生は会津藩士として生きた斎藤一ら新選組生き残りの一団が、会津まで進出してきた新政府軍とこの地で戦闘を交えたのです。












「新選組殉難の地。
母成峠の戦いに敗れた新選組は、北へ向かおうとする土方歳三らと会津に留まろうとする斎藤一らに分かれました。このとき斎藤一は「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」(谷川史郎兵衛日記)と同意した隊士とともに会津へ残りました。
明治元年(1868)年9月4日、城下に進出した新政府軍は、如来堂に立てこもる新選組を攻撃し激しい戦いを繰り広げました。このとき全員討ち死にしたとされています、実際は、斎藤一をはじめ数名が生き残りました。 」
(会津若松観光ナビより)


話は逸れますが、まさにこの記事を書いている2021年11月は新選組副長土方歳三の半生を描いた映画『燃えよ剣』が公開中。

わたしも観に行きましたが、ほんとうに面白い本格派時代劇でした。
己の誠に忠実に生きた新選組隊士たちの生き方には心底胸を打たれます。


話を神指城に戻します。
城の二の丸を囲む土塁が部分的に残っています。その土塁跡のひとつには現在「高瀬の大木(大ケヤキ)」という展望スポットになっています。

本丸から大ケヤキまでの距離は500メートル。
自転車でも結構な時間がかかりました。

この大ケヤキの下から本丸を眺めると、まぼろしの神指城がどれほど広大な城郭だったか実感できました。

神指城址をあとにして、次の目的地は鶴ヶ城です。


2,上杉謙信遺骸安置所

神指城址から約5キロ、会津若松市内をひたすら自転車をこいで鶴ヶ城に到着。
レンタル自転車もここ鶴ヶ城のなかのステーションで返却しました🚲
乗り捨てできるレンタル自転車はとても便利でした♪

秋の行楽シーズン中の祝日、新型コロナ感染症も下火になったこともあるのか、鶴ヶ城は驚くほどたくさんの観光客で大賑わい。



修学旅行生の姿も多いこと!


まずは本丸内の茶店で一服🍵
たい焼きではありません。
お城だけに、鯱(しゃち)焼きです。
(はみだしも豪快です、笑)


中は抹茶味の餡に白玉が入っています。
おいしかったー💕


天正六年(1578)に上杉謙信が亡くなったとき、その遺骸は甲冑を着せられ、大きな甕に入れ周囲を漆でかためられ居城の越後国春日山城に安置されたといわれています。
そして上杉家が越後から会津、さらに米沢へと移封される都度、謙信公のご遺骸もは一緒に運ばれました。
会津時代のご遺骸安置所だったと推測されているのが鶴ヶ城の本丸内黒鉄門(くろがねもん)のすぐ脇です。





遺骸安置所のまわりは西日に輝く紅葉。とても綺麗です。

最初黒鉄門の場所がわからなくて、本丸内に待機しているボランティア観光ガイドの方(同業者!)に尋ねたところ、そのボランティアHさんが丁寧に案内してくださいました。

Hさんによると、やはりわずか3年間の治世だったために会津若松にはほとんど上杉氏関連の遺跡はないこと、でも同じ福島県内の須賀川、白川には徳川との闘いに備えて整備した砦の遺構がわずかに残っているそうです。
会津若松の次は須賀川・白川方面に足をのばさなければ(^^♪



3直江兼続屋敷跡

鶴ヶ城を出てすぐの西北角に、当時の上杉家重臣、直江兼続の屋敷跡地があります。




この場所は江戸期には有名な儒学者にして兵学者山鹿素行の屋敷が建っていたとのことで、直江公屋敷跡の看板の後方に山鹿素行の記念碑が立っています。



夕暮れの鶴ヶ城


紅葉真っ盛りの会津を満喫。
楽しい自転車旅でした。


以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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常慶院~竹俣当綱の墓、キリシタン処刑場など、、、

2021年10月23日 | 米沢の歴史案内
おしょうしなガイドの会梅組、10月の研修で米沢市内南原地区の古刹常慶院を訪れました。

常慶院は戦国時代の武田家家臣で、武田家滅亡後上杉家の重臣となった市河家の菩提寺。
上杉家の移封によって信濃国から米沢に移り現在に至ります。

私たちを出迎えてくれたのは金藤住職。
住職は常慶院の長い歴史をじっくりレクチャーしてくださいました。
 

・竹俣当綱墓所
常慶院には市河家とゆかりの深い竹俣家の菩提寺でもあります。
竹俣家も上杉家の重臣で、なかでも江戸時代中期の上杉家家老竹俣当綱(まさつな)は上杉鷹山の藩政改革を支えたことで知られています。
近年ではフジテレビのアナウンサー竹俣紅さん(2021年入社)が竹俣当綱の子孫ということをご存じの方も多いかもしれませんね。

ここ常慶院の竹俣一族墓所にある当綱の墓所にもお参りしてきました。

向かって左が墓石。
上杉鷹山の師細井平洲による墓碑銘が刻まれています。


・殉教キリシタンの墓所
キリシタン殉教の地といえば長崎が有名ですが、実は殉教者の人数が一番多いのは米沢だということはあまり知られていないかもしれません。
1629年(寛永5年)、実に52人ものキリシタンが米沢で処刑されました。
殉教キリシタンはそのとき市内3ヶ所に分かれて処刑されましたが、そのなかの一か所がここ常慶院の裏手にあたります。
この場所で処刑されたのは武家の女性と子供たち7名。
野原のなかに7つの小さな墓石が並んでいます。






この研修ではさらに住職から常慶院の長い歴史を物語る貴重な品々(昔ばなし「ぶんぶく茶釜」ゆかりの茶釜。南原出身で新潟市第四代市長となった八木朋直直筆の掛け軸など、、)も見せていただき、貴重な学びとなりました。


以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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米沢のあたりまえ≪謙信・鷹山の肖像画≫

2021年07月12日 | 米沢の歴史案内
米沢市内すべての小中学校の体育館に上杉謙信公・鷹山公の肖像画が掲げられていると聞くと、市外の人は驚くそうです。
ちなみに体育館にこのお二人の肖像画があることは、米沢市民にとってはあまりにも当たり前過ぎて何の感慨もないことなのです。。。。


おしょうしなガイドの一員として、熱心に仙台市から米沢に通っていらっしゃるIさんから
“学校にある謙信公・鷹山公の画が見てみたい”
という希望があり、先日のガイド新人女性勉強会梅組の研修日、市立南部小学校の体育館にお邪魔して、久しぶりに肖像画にご対面してきました。





子供の頃は二つの肖像画はもっと天井に近いところにあって、いつもお二人から見下ろされているイメージでした。
でも今回改めて見ると、実際の額はけっこう低い位置にあって、

「あれ、こんなにお二人の殿様との目線が近かったっけ?」

とちょっと新鮮な驚きがありました。


今回私たちを案内をしてくださった南部小学校の教頭先生によると、高学年の児童には特別に上杉鷹山公の業績について学ぶ授業があるそうです。
郷土への愛着をはぐくむ素晴らしい取組みです✨
私の小学生時代にもそのような授業があったのかもしれませんが、あまりにも昔すぎてまったく記憶にないのでした 。
もっと若いころから米沢の歴史に興味を持っていればガイドの勉強も楽だったのに、と今になって思わずにいられません(´;ω;`)ウッ…

改めて小学校の肖像画と対面する機会をくれたIさん、学校との橋渡しをしてくれたM先生、南部小の学校関係者の皆さま、おしょうしな(ありがとう)<m(__)m>


以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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<おたかぽっぽ>の絵付けにチャレンジ

2021年07月11日 | 米沢の歴史案内
7月8日、米沢市の歴史観光ボランティアガイド「おしょうしなガイドの会」、女性新人の研修会梅組7月の研修日。

この日の前半は笹野民藝館にて米沢の民芸品笹野一刀彫の絵付けを体験しました。



古くから米沢市笹野地区に伝えられてきた笹野一刀彫。
江戸中期の名君上杉鷹山によって農家の冬の副業として推奨されました。

鷹を模した<おたかぽっぽ>は笹野一刀彫の代名詞。
ぽっぽはアイヌの言葉で子供のおもちゃの意味だそうです。

<笹野民藝館>HPより


この日、おたかぽっぽ作りの実演と絵付け指導をしてくださったのは笹野一刀彫の若手工人のおひとりです。



まずは絵付け体験。
あらかじめ薄く下絵が塗ってある木地に、ポスターカラーでオリジナルの柄を描いていきます。
慣れない筆使いに苦戦しました(;'∀')

見本のように上手に描けなかったけど、世界に一つだけのオンリーワンの作品
が出来上がりました✨


後半は一刀彫の実演です。

笹野一刀彫に使う木はこの地方の山林に自生しているコシアブラ。


この作業台もコシアブラ製です。
細い枝しか見かけないコシアブラも、成長するとこれほど幹が太くなるとは!!





工人は大きな刃物と小型の彫刻刀を巧みに動かして作品を生み出します。



まず実演してくれたのは花作り。
昔の米沢では生花が手に入らない冬の間、この造花を仏壇に飾りました。

民藝館の神棚に供えてある花

次はおたかぽっぽの制作実演です。





一本の枝からみるみるうちにおたかぽっぽが出来ていきます。


たちまち出来上がった花とおたかぽっぽ

若手の工人が活躍している笹野一刀彫。
これからも様々な作品で私たちを楽しませてくれることでしょう。

笹野一刀彫若手工人3名の作品を紹介するHPはこちら



わが家にやってきたオリジナルおたかぽっぽ
この日の思い出も込めて、長く大切に飾ろうと思います(^^♪



以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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