おしょうしな満腹日記~伊豆のお家ひまわり~

米沢スキー場ペンションおしょうしな跡地です。
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会津若松へ〜上杉家の面影〜

2021年11月05日 | 米沢の歴史案内
上杉氏は米沢に来る以前の一時期、会津を領地としていました。
慶長3年(1598年)太閤豊臣秀吉の命により越後国から会津に移されてから、慶長6年(1601年)関ヶ原の戦いで西軍側だったことにより米沢に移封されるまでの3年間です。

11月3日文化の日、会津若松に住む友人を訪ねに行くという長女の車に便乗し、私自身は上杉家が支配していた3年間のゆかりの場所をひとり廻ってきました。

会津若松到着後、まずはレンタル自転車を借りるためにJR会津若松駅で娘の車を降ります。
駅前で大きなあかべこが出迎えてくれました。



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目次
1,まぼろしの巨大城郭 神指城址(こうざしじょうし)
2,上杉謙信遺骸安置所
3,   直江兼続屋敷跡
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1,まぼろしの巨大城郭 神指城址(こうざしじょうし)
  
最初に向かったのは会津若松駅から西に4キロ程にある神指城址。
上杉景勝が建造を始めたものの、未完に終わった巨大城郭です。

田園地帯のなかを自転車を走らせていると、浮島のように盛り上がった一帯に神指城址がありました。

城址の中心は深い草藪。さらに城址の一部は私有地らしく柵で囲われていて、奥深く立入ることは難しそうです。
それでも城址周囲をめぐってみると、神指城についての案内看板が見つかりました。



神指城の本丸予定地だったことを示す木柱。


城郭の西側には阿賀川が流れています。

現地の案内看によると、上杉氏はこの阿賀川を利用して旧領越後に舟を漕ぎ出し、さらに日本海~瀬戸内海と海運交易を展開することを目論みました。そこで阿賀川に接するこの場所に神指城を築城しようとしたのですね。
しかし関ヶ原の戦いが起こり、敗北した西軍側だった上杉は米沢へ移封され、工事途中だった神指城は未完成に終わります。
上杉の壮大な交易計画も実現することはありませんでした。


また、ここ神指城本丸内の如来堂は新選組ゆかりの史跡でもあります。
新選組隊士でありながら、後半生は会津藩士として生きた斎藤一ら新選組生き残りの一団が、会津まで進出してきた新政府軍とこの地で戦闘を交えたのです。












「新選組殉難の地。
母成峠の戦いに敗れた新選組は、北へ向かおうとする土方歳三らと会津に留まろうとする斎藤一らに分かれました。このとき斎藤一は「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」(谷川史郎兵衛日記)と同意した隊士とともに会津へ残りました。
明治元年(1868)年9月4日、城下に進出した新政府軍は、如来堂に立てこもる新選組を攻撃し激しい戦いを繰り広げました。このとき全員討ち死にしたとされています、実際は、斎藤一をはじめ数名が生き残りました。 」
(会津若松観光ナビより)


話は逸れますが、まさにこの記事を書いている2021年11月は新選組副長土方歳三の半生を描いた映画『燃えよ剣』が公開中。

わたしも観に行きましたが、ほんとうに面白い本格派時代劇でした。
己の誠に忠実に生きた新選組隊士たちの生き方には心底胸を打たれます。


話を神指城に戻します。
城の二の丸を囲む土塁が部分的に残っています。その土塁跡のひとつには現在「高瀬の大木(大ケヤキ)」という展望スポットになっています。

本丸から大ケヤキまでの距離は500メートル。
自転車でも結構な時間がかかりました。

この大ケヤキの下から本丸を眺めると、まぼろしの神指城がどれほど広大な城郭だったか実感できました。

神指城址をあとにして、次の目的地は鶴ヶ城です。


2,上杉謙信遺骸安置所

神指城址から約5キロ、会津若松市内をひたすら自転車をこいで鶴ヶ城に到着。
レンタル自転車もここ鶴ヶ城のなかのステーションで返却しました🚲
乗り捨てできるレンタル自転車はとても便利でした♪

秋の行楽シーズン中の祝日、新型コロナ感染症も下火になったこともあるのか、鶴ヶ城は驚くほどたくさんの観光客で大賑わい。



修学旅行生の姿も多いこと!


まずは本丸内の茶店で一服🍵
たい焼きではありません。
お城だけに、鯱(しゃち)焼きです。
(はみだしも豪快です、笑)


中は抹茶味の餡に白玉が入っています。
おいしかったー💕


天正六年(1578)に上杉謙信が亡くなったとき、その遺骸は甲冑を着せられ、大きな甕に入れ周囲を漆でかためられ居城の越後国春日山城に安置されたといわれています。
そして上杉家が越後から会津、さらに米沢へと移封される都度、謙信公のご遺骸もは一緒に運ばれました。
会津時代のご遺骸安置所だったと推測されているのが鶴ヶ城の本丸内黒鉄門(くろがねもん)のすぐ脇です。





遺骸安置所のまわりは西日に輝く紅葉。とても綺麗です。

最初黒鉄門の場所がわからなくて、本丸内に待機しているボランティア観光ガイドの方(同業者!)に尋ねたところ、そのボランティアHさんが丁寧に案内してくださいました。

Hさんによると、やはりわずか3年間の治世だったために会津若松にはほとんど上杉氏関連の遺跡はないこと、でも同じ福島県内の須賀川、白川には徳川との闘いに備えて整備した砦の遺構がわずかに残っているそうです。
会津若松の次は須賀川・白川方面に足をのばさなければ(^^♪



3直江兼続屋敷跡

鶴ヶ城を出てすぐの西北角に、当時の上杉家重臣、直江兼続の屋敷跡地があります。




この場所は江戸期には有名な儒学者にして兵学者山鹿素行の屋敷が建っていたとのことで、直江公屋敷跡の看板の後方に山鹿素行の記念碑が立っています。



夕暮れの鶴ヶ城


紅葉真っ盛りの会津を満喫。
楽しい自転車旅でした。


以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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