おしょうしな満腹日記~伊豆のお家ひまわり~

米沢スキー場ペンションおしょうしな跡地です。
2019年より大室高原オーシャンビューの一軒家ひまわりを営業中

米沢の歴史案内~9即身仏を訪ねて

2021年06月02日 | 米沢の歴史案内
「即身仏」をご存じでしょうか?

自分の意志で食事を絶ち、生きながら土に埋もれ、ミイラとなった僧侶たちの亡骸が即身仏です。
ここ山形県南部、置賜(おきたま)地方には二体の即身仏が現存しています。

ボランティア観光ガイド「おしょうしなガイドの会」の新人女性の集まり<梅組>の研修の一環で、先日この二体の即身仏を訪ねました。

*お断り
即身仏は現存する生々しいミイラですので、この記事では当日拝見した即身仏そのもののお姿の写真を掲載することは遠慮いたします。悪しからずご承知ください。


1,子孫が守る即身仏
先に訪れたのは米沢市内簗沢の明海上人です。
即身仏は通常地域のお寺に祀られていますが、この明海上人は子孫が個人で管理している日本唯一の即身仏です。
明海上人のご子孫松本さんが自ら出迎えてくださいました。

明海上人は江戸時代貧しい農家の長男として生まれましたが、不幸にして15歳のときに失明します。
その後仏門に入り厳しい修行を続け、地域の人々からの崇敬を受けながら44歳で亡くなり即身仏となりました。




明海上人が祀られているお堂
上人は生前もこの場所を本拠地としていらしたそうです。



護摩壇の跡


護摩壇の隣にある井戸



広く崇敬された明海上人が移動に使ったの輿の一部。
お堂の別棟に展示されていました。



同じく別棟に展示されていたこちらの写真は、おそらく昭和57年(1982年)、当時の新潟大学にて修復作業を終えて戻ってきた明海上人を迎えた地元の皆さんの様子かと思われます。

明海上人のお堂は通常閉じられていますが、お堂の外から拝観可能です。




2,“町おこし”で発見された即身仏
明海上人のお堂をあとにして、次に訪れたのが白鷹町黒鴨の蔵高院・光明海上人です。
光明海上人を管理している常安寺の住職から詳しく解説をしていただきました。

光明海上人は若いころ腕のいい猟師でしたが、その後仏門に入り嘉永7年(1857年)、即身仏になるべく「100年後に掘り起こせ」と言い残して土中に入りました。ところがその後光明海上人の塚がある集落そのものが消滅してしまいました。そして「100年後に掘り起こせ」という光明海上人の言葉は実行されないまま歳月が流れます。

しかし昭和53年、当時高まっていた“町おこし”のテーマとして白鷹町では即身仏光明海上人の存在が浮上。光明海上人が入ったと伝わる塚の学術調査が始まり、お骨と遺品が収集され、修復作業を経て光明海上人は塚のふもとのお寺蔵高院に安置されました。

光明海上人の拝観は前日までの予約制です。




ちなみに写真に写っている石は、蔵高院のすぐ脇を流れる川で採取される黒い石。
上杉鷹山による産業振興策の一つとして、この石材を活用した硯(すずり)造りが長く伝承されていたそうです。


おわりに
この日二体の即身仏をこの目で拝見し、関係者の話を伺っていくなかで、かつて生身の人間だった二人の僧が即身仏になろうとした理由がますますわからなくなりました。
色々思いをめぐらせているうちに、二軒目の蔵高院では写真を撮ることさえ忘れてしまいました。
最後に気が付いて唯一撮らせていただいたのが上の一枚です。

超人的な荒行を重ねた末に即身仏を目指した上人たち。
彼らの胸の内を推し量ろうとすること自体が無謀なことなのかもしれません。




以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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大室高原 オーシャンビューの一軒家 ひまわり

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米沢の歴史案内~8春の愛宕山へ

2021年04月24日 | 米沢の歴史案内
4月20日、ちょうど伊豆から帰省していた夫と市内遠山の愛宕山に登りました。

愛宕山は海抜559メートル、山頂には火の神軻遇突智命(かぐつちのみこと=迦倶槌神)を祀る愛宕神社が鎮座しています。


県道245号線から愛宕山登山道への案内看板。この看板を見逃さないように要注意です。


この看板には「愛宕山・片倉山館登山道」と表示されていますが、片倉山館とは、伊達家が米沢を支配していた時代に外敵の攻撃から米沢を守る防御のために愛宕山中腹に造られた砦跡のようです。

愛宕山周辺の山城ついてはこれから学びを深めて、いつか記事にできたらいいなあと思っています。



標識のおかげで無事愛宕山登山道の駐車場に着きました。
ここには大きな愛宕山全域の案内看板があります。





ふと看板の足元に目をやると、あたり一面が湿地になっていて希少な山野草ミズバショウが盛んに咲いているではないですか!




まだ登山を始めるまえにこんな素敵な花に出会えるとは、なんて幸先が良いんでしょう♡


斜面を登り始めるとまたすぐに大きなヤマザクラが迎えてくれます🌸


カタクリ


ショウジョウバカマ


ヒトリシズカ


イチゲの群落

登山道をゆく途中で次々と出会う可憐な山野草たちに、テンション上がりまくりです↑↑↑




一時間足らずの登山で登頂✨
山頂の愛宕神社はまだ雪囲いで覆われていました。
愛宕神社への参拝はまた次の機会に持ち越しです💦

この愛宕神社は名君上杉鷹山公が、ある旱魃の年に自ら登山して雨乞いのために祈祷をしたことでも知られています。

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明和8年(1771)は春先から雨が少なく、前年に続いて農作物への被害が心配されました。藩では領内の寺社に雨乞いの祈祷を命じましたが、雨は降りませんでした。
 こうしたなか鷹山は、自ら謙信を祀る御堂で雨乞いを始め、6月5日早朝には竹俣・色部の両奉行を連れて愛宕山に登り、降雨祈願を行いました。すると、午前11時頃から雨が降り始め一夜降り続きました。この恵みの雨により枯れ死寸前の農作物が生き返り、農民たちが大変喜んだと伝えられています。
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領民を深く慈しみ、自ら領民と共に行動を起こす鷹山公らしさを現すエピソードです。


愛宕神社脇、「鷹山公雨乞之碑」 の隣には大きなヤマザクラが見事に咲いていました。


晴天のこの日、山頂からは米沢盆地から越えて遠くの山々までがよく見えました。
雨乞い祈祷のためこの愛宕山を登った鷹山公も見たであろう、米沢市街地の眺めです。


以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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米沢の歴史ご案内~6上杉伯爵邸でランチ

2021年04月08日 | 米沢の歴史案内
二月某日、上杉公園に隣接する上杉伯爵亭(上杉記念館)でランチをいただく機会がありました。
コロナ禍による自粛期間の只中でしたが、しっかりと感染対策が取られた少人数の食事会です。
(久しぶりの家族以外の人たちとの外食ということもあり、嬉しさのあまりこの日のために洋服を新調してしまいました、笑)

まだ春遠い二月の晴天。
雪と青空のコントラストが眩しい日でした。

玄関先にもこの積雪。
米沢の冬らしい光景です。


上杉伯爵邸は上杉家第14代上杉茂憲(もちのり)伯爵の邸宅として明治29年に建設されましたが、その後の大火で類焼。大正14年に再建されました。

この館の主、上杉茂憲伯爵は沖縄県の第二代県令を務めたことでも知られています。
当時は道路も未整備だったにもかかわらず、茂憲公は沖縄本土だけでなく宮古石垣両島まで視察の旅を敢行。困窮にあえぐ庶民の暮らしを目の当たりにして県政を改革しようと奮闘しました。
しかし中央政府は茂憲公の改革意見を黙殺。茂憲公は赴任から僅か二年で県令を解任され、志半ばで本土に戻ります。

しかし茂憲公が情熱を傾けた人材育成は後年実を結びました。
茂憲公が東京に派遣した県費留学生たちはのちに沖縄最初の新聞「琉球新報」創設、「沖縄銀行」設立などの他、那覇市長・首里市長・沖縄県最初の衆議院選挙で議員になった者など、政財界で活躍しました。
またのちに沖縄自由民権運動の創始者となった謝花昇(じゃはなのぼる)も、上杉県令時代に東京に派遣された県費留学生の一人でした。


高橋義夫著
「沖縄の殿様~最後の米沢藩主・上杉茂憲の県令奮戦記」




さて話は現代の食事会に戻ります。

上杉伯爵亭、館内のインテリアは元祖和モダンな雰囲気。


上杉家の家紋「竹に雀」の釘隠し。
このようなさりげない細工物を発見するとテンション爆上がりです😍 


通された部屋には小正月の伝統行事「団子の木」も。



運ばれてきたお膳には米沢の伝統料理が並びます。



「塩引き寿司」
縁起の良い紅白、米沢のお祝い寿司です。



「冷汁(ひやしる)」
干し貝柱と干しシイタケの出汁で季節の野菜を合わせます。
この冷汁も米沢の冠婚葬祭には欠かせません。



おみ漬け
青菜と大根、人参などのお漬物。
最上川水運による交易に来た近江商人から伝えられたことに由来する名前とか。



「鱒の道明寺蒸し」
郷土料理でありませんが、春の到来を予感させるお味です♡


南国沖縄での上杉茂憲公の奮闘に思いを馳せつつ、まだ雪深い米沢でいただく郷土料理の数々。とても美味しくいただきました。


以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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米沢の歴史ご案内~5雲井龍雄

2020年11月04日 | 米沢の歴史案内
先日開かれた米沢市のボランティア観光ガイド<おしょうしなガイド>の会員向け研修会、テーマは幕末の志士であり天性の詩人雲井龍雄でした。

米沢藩士 雲井龍雄(1844~1870)。
戊辰戦争中は藩の指令で京都市中での諜報活動に奔走し、また薩摩藩を非難した名文「討薩の檄」で味方を鼓舞。
維新後は新政府に不満を持つ浪士を集めて政府転覆をはかった疑いにより逮捕、斬首されました。
享年27歳。



雲井龍雄の墓は米沢市内の常安寺にあります。



昨日は市役所向かいの北村公園のなかにある雲井龍雄のレリーフまで行ってきました。
街中でも紅葉が見ごろになってきました。




端正なお顔の下には名文「討薩の檄」の全文が彫られています。



初め、薩賊の幕府と相軋るや、頻に外国と和親開市するを以て其罪とし、己は専ら尊王攘夷の説を主張し、遂に之を仮て天眷を僥倖す。天幕の間、之が為に紛紜内訌、列藩動揺、兵乱相踵(つ)ぐ。 、、、、、



内容は、、、すぐには理解できません。これは手強い(-_-;)
秋の夜長、雲井龍雄が残した詩の数々をじっくりとひも解いてみようか、とも思います。

以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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米沢の歴史ご案内~5キリシタン公卿殉教者、山浦玄蕃

2020年07月10日 | 米沢の歴史案内
江戸時代、キリスト教徒への迫害から逃れるために京都から米沢に移り住み、最期は米沢で殉教した公家の子、山浦玄蕃が制作した欄間が発見されたという新聞記事を目にし、早速その作品が展示されている田沢コミュニティセンターに行ってきました。

山形新聞、2020年7月3日



山浦玄蕃とは
公家四辻大納言公遠の孫。
米沢藩初代藩主上杉景勝公の側室で、二代藩主定勝公の生母、桂岩院の甥にあたります。

寛永12年(1635年)、幕府によるキリシタン迫害が厳しさを増すなか、キリシタン政策が他藩よりゆるかった米沢藩に妻子と共に移住。
米沢藩は玄蕃を厚く遇し、ご一族中に加えます。
しかし玄蕃がキリシタンであると幕府に密告する者があり、米沢藩も次第に玄蕃を庇いきれなくなり、ついに承応二年(1653年)、城下の極楽寺にて処刑されました。


今回発見された欄間は、藩によってかくまわれていた米沢郊外で、その土地の豪農のために制作したものと思われます。


展示会場の田沢コミュニティーセンター

大工道具の左官ごてを用いる「こて絵」という手法で描かれた、玄蕃作の欄間が裏表合わせて4作展示されています。



受付でいただいた作品解説書。
田沢郷土史編集委員長、清野春樹氏による詳細な解説が載っています。
(シワシワにしてしまってスミマセン)
以下、個々の作品について、こちらの解説文から引用させていただきます。




【鐘離権、剣で波を渡る図】
鐘離権は燕台の人で、西晋の将軍だったという。ある戦いで敵味方とも壊滅し、単身で逃走中、ある老人に遭って昇仙の意を持ち、老人からその極意を授けられた。
中国で有名な8人の仙人のひとりに数えられる。
剣に乗って波を渡る姿で表現されるが、通常は笠を持つところが、この絵では布袋を背負っている点が、キリストの聖骸布を連想させる。



【雪中筍の図】
三国時代に呉の孟宗が母の願いにより雪中に筍をもとめ、奇跡が起こって筍を得る。
神の恩寵を物語る



【琴高仙人図】
周の時代の趙の人、琴の名手。琴高仙人は弟子を集めて今から河に入るが龍になって甦ると予告。やがて鯉に乗って現れた。鯉は黄河の竜門を過ぎると龍になるという。
復活と昇天を物語る



【松に雉図】
雉は日本の国鳥で、ケーンケーンと甲高く啼くことで知られる。そのため猟師に狙われることが多く、「雉も啼かずば撃たれまい」との諺にもなっている。
もう一歩踏み込むと、雉は妻を恋い、子を慕う鳥として万葉集で歌われる。
玄蕃の家族よ永遠なれという心が松に表れている。


この四作品は日本の花鳥風月や中国の物語を題材にしながらも、解説にあるようにその実は迫害にも揺るがない深い信仰心を暗示したものなのでしょうか。想像が膨らみます。


田沢コミュニティセンターを後にして市街地に戻り、次は玄蕃が処刑された東寺町の極楽寺を訪ねました。





極楽寺の敷地の一番奥まった場所。伯母で上杉家二代藩主定勝公の生母桂岩院の墓の隣に、山浦玄蕃の供養塔がありました。



なお玄蕃の二人の息女は米沢で結婚し、その家系は今も受け継がれています。


以上、最後までご覧いただきありがとうございました。

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