須賀 丈さんをお迎えして、第19回乙女高原フォーラム開催🍀
~草原を守れば、つながり復活?!~
朝はまだ雨が降っていました。所によっては雪だったようです。フォーラム会場の「夢わーく山梨」に続々とスタッフが集まってきたので、着々と準備が進められました。例年だと廊下に受付場所を設けますが、今日は寒いのでホールの後方に受付場所を設けました。その隣を展示スペースとしました。「須賀さんの本コーナー」、「ファンクラブのコーナー」「県有林のコーナー」の3つを設けました。講師の須賀さんは前日の夜に山梨に入り、ホテルに一泊していただきました。今日の午前中は万力公園の中を歩き、霞堤を見て来たそうです。
午後1時、市観光課武川さんの司会でフォーラムが始まりました。高木市長は他の公務のため欠席。メッセージが代読されました。その後、ファンクラブ植原が進行を担当しました。まず、ファンクラブ代表世話人の三枝さんがスライドを見せながら乙女高原ファンクラブの1年間の活動報告をしました。次に、乙女高原案内人の山本さんが自然観察交流会と夏の案内人活動の報告を、これもスライドを見せながら報告。楽しい写真をどんどん見せるというやり方でした。続いて、乙女高原フェローの説明と、フェロー認定者への認定証・記念品贈呈です。説明は山本さん、贈呈はファンクラブ代表世話人の古屋さんでした。
そしていよいよ、今回のスペシャルゲスト須賀 丈さんのお話です。井上さんの講師紹介後、「草原を守れば,つながり復活?!」のお話が始まりました。お話終了後、会場からの質問に答えていただきました。マイクを司会の武川さんにお返しし、古屋さんのお礼の言葉、ファンクラブ世話人の芳賀さんから諸連絡があり、フォーラムが終了しました。片付け後、会議室をお借りし、有志で須賀さんを囲んだ茶話会を行いました。なんと22人も残ってくださいました。つけものやお菓子を頬張りながらお茶を飲み、情報交換しました。さらにさらに、今回は2次会も開催。駅前の飲み屋さんで打ち上げを行いました。こちらには6人が参加しました。こうして、今年も充実した乙女高原フォーラムが終了しました。
以下、植原が録音を聞きながら文字起こしをしました。話し言葉をそのまま書き言葉にするとわかりにくいところは修正しました。したがって、文責は植原にあります。
◆大阪で生まれ、長野に暮らしています
私が勤めている環境保全研究所は長野県立の研究所で、私はそこで昆虫の生態を担当しています。2004年に長野県のレッド・データ・ブックを作った折に、絶滅危惧種の多くが草原に生息地を持っていることに気が付きました。昆虫を守るためには草原環境を守らなければならないことに気づいたわけです。と同時に、草原を守ることは想像以上に難しいということにも気づきました。というのも、かつては草刈りや野焼き、放牧によって維持されてきた草原ですが、現在の生活では、草の利用はほとんどなくなってしまいました。そんな中で、どんな取り組みをすれば草原の保全が可能なんだろうか?-というところから興味を持ち始めました。
その当時、すでに乙女高原ファンクラブの活動は行われていまして、2009年に乙女高原をこっそり見せていただきに来ました。そのころから、皆さんの活動がたいへん参考になるなと拝見させていただいていました。送っていただいた資料やさきほどの活動報告を見せていただき、改めて、皆さんの活動を仰ぎ見るような気持ちになったわけですが、私は、活動を率先してやるというよりか、県の職員そして研究者ですので、市民と行政と研究者をつなぐような立場で、コミュニケーションをどうとっていけばいいのか、いかにして草原の価値を社会で共有していくか、そんなことを考えながらお話をしたり、文章を書いたりする機会が多くありまして、そんな経緯から今回お招きいただいたのかなと思います。私がおもに活動している霧ケ峰は、乙女高原と同じような課題を抱えています。それにも触れながら、お話を進めていきます。
私は大阪生まれです。万博開催のときは幼稚園児でした。その翌年に環境庁(当時)ができました。その翌年の72年にはストックホルム国連人間環境会議(環境に関する初めての国際会議)が開催されました。当時は、環境問題というと公害の時代でした。光化学スモッグが出て、学校が休みになるなんてこともありました。当時、大阪で子ども向けの観察会を開催する大人たちがいて、そんな会に参加したことから自然に興味を持ち、山登りを始め、高校では山岳部に入りました。
長野県に来たのが1996年、バブルが終わり、低成長の時代でしたが、長野はまだオリンピック前でしたので開発が進められていて、オリンピックが終わったとたんに開発が終わって経済がどんどん縮小する時代になりました。
私が子どものころは人口が増えて、経済も発展していく裏側で、自然がどんどん開発されていきました。私が育ったのは千里ニュータウンというところですが、里山を壊して造成された住宅地です。ですので、当時は、自然保護というと開発から自然環境を守る、いかにして開発させないかというのが中心でした。
ところが、私が長野に来て、特に2000年以降は人口減少が始まり、草原の問題に象徴されますように、人が自然に手を入れなくなったことによって、失われていく生き物たちがいることが目立つようになってきました。
私は大学でハナバチの研究をしていましたから、いろいろなところで観察すると、高山にも草原にもマルハナバチはいるのですが、種類が違います。大学のころはミツバチの研究もしていましたからマレーシアやインドネシアにも行きました。場所が違えば、生えている植物が違うし、そこに来る昆虫も違います。このように土地ごとに違った植物や昆虫の集まり・生物群集があって、特有の生物多様性が成り立っている、しかもそこに人の暮らしや文化もかかわっているということに興味を持つようになりました。特に、草原の保全を考える上では、人の暮らしとか歴史・文化をよく考えないといけないと考えるようになりました。
講演のポイント
現状→グローバル化が進み、産業社会の中で様々な問題が起きている。
地域の自然と文化が分断されつつある。
提案→草原の価値をみんなに見えるようにする、体験化することによって
自然と文化をつなぎなおすことができないかな。
講 演 の 内 容
1 why なぜ草原とのつながりなのか?
地域の方々が持っている生活の知恵や知識などの在来知に注目したい。
2 what 草原の何とつながるか
草原利用の歴史と文化
3 how 具体的にどんな方法でつながりなおしていけばいいのか。
◆地域の自然と「在来知」
「もの」から「こと」へ ● 山梨県も同じだと思いますが、長野県では人口減少が始まっています。歴史上、類のないよう速さで人口増加が起こり、そのあとで、また同じようなスピードで人口減少が起こり、高齢化も進んでいます。見方を変えれば「成長」から「成熟」へということだと思います。物は足りたので、違う形で社会を充実させていく時期だと思います。その指標の一つとして家計消費があります。1970年ごろは家計の多くは物を購入して所有することに使われていましたが、ここ数十年の間に質が変化しておりまして、サービスに対する支出が増えています。言い換えれば、物は十分足りていて、手に入れたいと思っている価値の物差しが「もの」から「こと」へ変わってきているといえます。これは草原の「草」をどうとらえるかということとつながってきます。
また、「田園回帰」と言われているのですが農山漁村に定住したいと思っている都市住民があらゆる年齢層で増えています。山梨県も長野県と並んで、首都圏で調査すると「移住したい」という希望者が多い県です。
外国人旅行者も急増しています。外国の方々が日本に来られるときに、何を求めてくるかというと、里山の文化というのがあるんじゃないかなと思います。木曽には中山道が通っていまして、古い宿場町があります。近年、外国の旅行者が急増しています。妻籠と馬籠を結ぶ峠道を歩いているハイキング客の7割は外国人です。その方たちが飛騨街道に入ってきますと開田高原で、そこから岐阜県に向かうわけです。そこで、地元では英語も併用したマップや案内板を作っています。私は外国人になったつもりで丸1日、開田高原を歩いてみました。馬を祀った馬頭観音があったり、ソバ畑があったり、御岳山が見えたり、キキョウの花が咲いていたりと、とてもきれいな景色でした。ここで街灯を見かけました。馬のレリーフがかざりで付いていました。だけど、今、開田高原に行っても、馬はいないんです。「これはなんだろう?」と、おそらく外国人の方は思うのではないかと思いました。
旅人視点で考える ● 「旅人にとって田舎の風景ってなんだろう?」という視点で考えてみたいと思います。フランスの田園風景を見ると、日本のものとはあきらかに違います。自然は場所によって違いますし、異質性を感じさせてくれる要素にもなります。農村の風景であれば、そこに自然と文化とのつながりが、地域の郷土色として感じられます。ある意味で、固有性です。郷土料理もそうですね。それがその瞬間あるだけでなく、過去から未来へとつながっていく時間の流れの中でできあがったものであり、旅人はそこに行って、それに出会うわけです。そこにしかない風景や文化は、その地域にしかない資源ですから、これらをうまく使えば地域の発展に役立つ財産として使えるわけです。
風景の背後には生物の成り立ちがあって、それを考えるには生物多様性という言葉が便利です。生物多様性は地球上の生物がつくりだす、さまざまな環境の全体を言い表すものですけれども、地域に着目すると、その地域が持っている自然の特色ということになります。その中には遺伝子から種・生態系といろいろなレベルでの多様性があるわけですけれど、そのようにして、地域自然を丸ごと見る、あるいは地域の自然の、他とは違う特色を見るという視点につながると思います。
そういう視点で地球上を旅する人のことを考えると、そもそも私たち現生人類ホモ・サピエンスは約7万年前にアフリカから世界各地に広がっていきました。約1万年前までには南米の端までたどり着きました。その間にはいろいろな環境があって、それぞれの地域で生きる術を見出してきました。その地域に固有の文化を発展させてきたということでもあります。そのような地域ごとの文化や自然の中には、現在まで続いてきているものもあります。
生物文化多様性 ● そういった特色を求めて、今でも旅する人がいるわけです。私たちが外国に行ったときにも、それを感じるわけです。地球環境の多様性から生まれる人間生活の多様性のことを、最近、生物文化多様性というようになってきています。これは言語の多様性、これは地球上には全部で6000くらいあるといわれておりまして、その地域の言語に結び付いた文化があり、その文化と結びついた生物の多様性があるわけで、言語と文化と生物それぞれの多様性の結びつきを生物文化多様性と呼ぶわけです。具体的には、日々の生活の中で生物資源を利用するための知識や知恵というふうにも考えることができます。
韓国の釜山とインドネシアのスラウェシの魚市場に行きましたが、海域が違えば住んでいる魚が違います。当然、水揚げされて市場に並ぶ魚も違います。それが生物学的に違うだけではなくて、その土地固有の言葉で魚を呼び合って売り買いし、その土地固有の調味料等で、その土地固有の調理をし、郷土料理を作るわけです。その時に使われる言語や知識というものが「在来知(伝統知)」と呼ばれるもので、生物文化多様性の中身を決めているものです。地域の生活・文化・言語に根差し、周囲の環境や生物の利用や信仰などにかかわる体系化された知識です。
長野県のある山村には3種類のダイズの品種が植えられてれいます。この中には伝統的な品種もあれば、農業試験場で近代的な育種技術によってつくられたものもあります。それぞれ味も違いますし、利用の仕方も違います。それぞれの畑に合った品種はどれかということを耕作する人は判断してつくっているわけです。つまり、科学的な知識と在来知が混じりあった形で今でも日本の山村では農業が営まれているわけです。
近年、ダイズの品種は画一化しつつあります。そうなってくると、在来知も失われていくことになります。多様な品種があって、多様な知識があれば、環境が変わったとき、あるいは、経済的な環境が変わったときも、対応できるクッションになるといわれていますが、画一化するとそういった柔軟性も失われるのではないかとという懸念が広がっています。
ローカル資源利用からグローバル資源利用へ ● 日本は江戸時代まではローカルな資源を利用する農耕社会でしたけれども、この100年あまりの間にグルーバルな資源利用をする産業社会へと大きな変貌を遂げました。歌川広重「冨士三十六景」“甲斐大月の原”には、キキョウやオミナエシなど草原性の植物が描かれています。当時の人たちはこういった草を刈って肥料にしていましたので、こういった景観が普通に見られました。
そうやって日本の消費生活が外国からの資源を利用するようになって、海外の生物資源を損なっているということが起こっています。これは日本だけのことではありませんが、グローバルな産業社会が共通に持つ課題として指摘されています。エコロジカル・フット・プリントという指標があります。人一人が生きていくのに必要な自然環境の量を面積として表したもので、日本人は6/7が海外、残りの1/7だけが国内の資源を利用しています。そういうことを通して、海外の自然や文化にも影響を与えているのが現在の私たちの生活なわけです。 今は、こういった景観が見られなくなりましたよね。これは資源を外国から買うようになったということと関係しています。日本の近代化100年の歴史そのものが資源利用をグローバル化していく歴史でもあったのです。アメリカの環境歴史学者のトットマンという人が書いています。その中で里山・農村に暮らす人々の日々の知識そのものも在来知から科学的な知識へと置き換えられてきました。
その一方で、里山の自然には手が入らなくなり、失われつつあるわけですけど、かつて生物資源を利用していた在来知は森林でいうと二次林(里山林)、草原でいうと半自然草原と結びついていました。今では人の手の入らない自然林・自然草原と、人工林・人工草地という二極分化したとらえ方が一般的ですが、中間にある二次林・半自然草原が人々の生活と結びついた在来知の場であったわけです。
在来知から科学知へ ● 長野県のある場所で圃場整備があり、景観が大きく変わりました。畔が広くていろいろな野草が咲いていました。その中にはかつては薬草として使われたものもあり、絶滅危惧種であるホンシュウハイイロマルハナバチがいる場所だったのですが、整備でいなくなってしまいました。圃場整備をするには科学的な知見が必要ですから、科学知が導入されて、農村の景観が変わり、暮らしも大きく変わりました。このことによる恩恵があった一方で、失われた在来知や自然もありました。その両面を見る必要があると思います。
長野県では昔、普通に盆花の風習がありました。研究所で聞き取り調査をやっているのですが、キキョウやオミナエシやナデシコなどの野草が先祖の魂の依り代となり、お盆が終わると、野辺送りをするわけです。野の風景の向こう側にあの世があるわけですから、身近にある野の風景そのものが、ある意味、あの世ともつながる空間として意味をもっていたのかなあと想像するわけです。こういったことで、周りの景観と結びついた心の世界、そういった意味での文化も失われてきた可能性があります。こういう行事は高度経済成長の時に衰退し、簡略化されました。今は盆花をホームセンターで買ってくることが多くなりました。
山里の民宿の食事でもフキや川魚など山里ならではの食材も出ますが、刺身とかエビとか他所からの食材も出てくるわけです。たいへんなごちそうですが、ここの風土を感じさせてくれる食べ物というとフキや川魚だと思うわけです。現在の日本の農村の生活の中で、地域や生活、自然に対する利用の在り方というのはこういうふうに、外の生物資源と身の回りの生物資源の利用が混じりあっているのが普通なのではないかと思います。民宿のメニューはその象徴だと思います。
生物多様性の危機 ● 生物多様性には4つの危機があります。第一の人間活動や開発による危機は、私が子どものころによくあったものです。今でもありますし、問題がなくなったわけではありませんが、むしろ、第二の人間活動の縮小による危機や、第三の外来種など、人間が生態系に持ち込むものによる危機、さらには、気候変動による第四の危機があり、かつての開発を防ぐという形のものだけでは対応できない、新たな自然環境への脅威が出てきています。
私は半分行政におりますのでよくわかるのですが、第一の危機への対応のしくみはすでに行政の中にあるんです。十分に機能しているかどうかは皆さん意見があるかもしれませんが、環境アセスメント制度や国立公園制度など、担当者がいて、対応する体制というのは一応できています。
だけど、第二、第三、第四の危機については、まだ行政の中に確立した体制は、少なくとも地方自治体レベルでは確立していないのが普通です。長野県では「生物多様性ながの県戦略」の見直しの時期にかかっています。2012年に作って2020年までの行動計画を立てておりますので、今年が見直しの時期なんですけど、それにあたって、県内の市町村の担当者にアンケートをしました。「皆さんの市町村で生物多様性にとってどんなことが重要な課題ですか」。一番多い回答が外来種です。外来種はターゲットがはっきりしているので、行政の人にもわかりやすいです。ちゃんと駆除できるかどうかは別として、何をすればいいかはイメージできます。これから外来種対策はある程度できてくるだろうなと思います。
むしろ難しいのは第二の危機と第四の危機です。第四の危機は地球全体の足並みがそろわないとどうにもならない問題です。長野県や山梨県など山がある県だと、周囲の暑くなった環境で生き延びられなくなった生き物が山に登ることで生き延びられる、山が逃避地になる可能性があります。景観を連続させることで、逃避地として機能させる必要があります。できるできないは別として、やるべきことは第四の危機もイメージできます。
ところが、第二の危機については、自然環境をどうにかするという問題ではなく、私たちの生活というか生き方にかかわるような問題なので、難しいなあと思います。それが草原にかかわってきます。
乙女高原でもマルハナバチの観察をされていますが、長野県にもマルハナバチはたくさんいまして、10種類います。口吻の長いものと短いものがありまして、短いものは浅い花、長いものは深い花に適応しています。マルハナバチの中で絶滅の危険性が高く評価されているのは、高山・亜高山に分布域があるニッポンヤドリマルハナバチ・ナガマルハナバチと、半自然草原に分布域があるクロマルハナバチ、ホンシュウハイイロマルハナバチ、ウスリーマルハナバチです。高山・亜高山の環境は今後、急速に気候変動によって生息環境が変化していきます。すると、生息しにくくなる可能性がありますが、その因果関係などは実証できる段階ではありません。情報不足という状態にあります。
二次草原をどうすれば守れるかということを考えたときに、地域づくりと広い意味で位置付けるしかないかなと考えています。地域づくりで欠かせないのが人々の参加です。参加するためには何が必要かというと、場所とコンセプト、どこで、なにをするかということです。例えば、乙女高原で、乙女高原の自然を守るといったことです。それによって、そこにしかない地域の資源を守るという発想が考えられます。景観や文化や在来知を守ろう、それはいろいろな知識や人とのつながりで守ろうということを今、考えています。 それに対して、半自然草原を主な生息場所とする3種は採草地やスキー場、田畑の畔のような環境にしか生息できないものですから、こういった環境がなくなると、ほぼ生息できなくなります。どうやったらこういうものを守れるかということですが、管理放棄による森林化などが絶滅危惧の背後にあり、さらにその背後にはローカルな資源利用からグローバルな資源利用に変わったという人類の文明全体の転換があります。その結果として生物多様性と地域文化が同時に消滅しつつあるということです。このような草原性の希少種としてマルハナバチ以外でも植物、チョウなど多くの生き物が知られています。
ここまでのまとめ Why? なぜ草原との“つながり”か?… 1. 地域の自然と「在来知」
近 代 化・グローバル化 →生物多様性と地域文化の危機
地域資源: そこにしかない自然と文化のつながり →景観・文化・在来知
在 来 知: 生活の基盤,歴史の遺産 →“つながり”で守る自然と文化
◆草原利用の歴史と文化
地質年代でみると ● 今から6600万年前、ユカタン半島の近くに巨大隕石が衝突し、恐竜が滅びました。それで中生代が終わり、新生代が始まりました。今も新生代です。いろいろなデータから、新生代の前半は、全般的に温暖であったといわれています。後半になって、寒冷化しました。温暖だった時代を古第三紀、寒冷になった時代を新第三紀と呼んでおります。その最後に第四紀という、さらにさらに寒冷化した時代になりました。寒くなったというより、寒暖が極端に繰り返される気候になった時代で、これが現代につながる第四紀です。
気候変動に関する国際的な政府間組織であるIPCCが定期的に報告書を出していますが、その第5次報告書の中に、新生代を通じた二酸化炭素の推定値のグラフが出ていますが、新生代の初めに上がって、そして下がっています。二酸化炭素の量が多かった時代は気候が温暖であったので、温暖だったことが先か、二酸化炭素の量が先かは、簡単には言えないんですけど、その相関関係は分かっています。さらに、植物の化石などから気候変動の歴史がわかります。
新生代の前半には、熱帯林が高緯度地方、今の北海道やイギリスなどでも見られたということが化石などからわかっています。後半になると、温帯林が南下し、北極の近くにあったブナ林やナラ林が、寒冷化に伴って温帯まで下がってきました。その時代の後半になって、草原環境が広がりました。このように、地球が寒冷化して温帯林や草原が広がることによって、マルハナバチが北半球で分布を一気に広げました。
日本列島が形成されたのは新第三紀の中頃で、第四紀になって高山が形成されました。そうやって、地球が寒冷化する歴史に乗っかって、マルハナバチや草原性の植物たちが日本列島に入り込んできました。
ちなみに、この6000万年の歴史の中で考えると、今の二酸化炭素濃度はかなり低い状態ですので、地球環境でいうと、これから温暖化するということはたいしたことではないと思ってしまうかもしれませんが、そうではありません。現在、地球の温室効果ガスは400ppmを超えていますが、この濃度になったのは過去80万年なかったことです。ホモ・サピエンスがアフリカで誕生したのが20万年前ですから、それより前です。人類の誰も体験したことのない濃度ということです。ということは、人類が体験したことのない気候状態になりつつあるということです。このまま放っておくと、100年200年で1000ppmを超えるといわれていまして、このあたりが熱帯林に覆われていた時代と同じになります。人類が文明を築き始めたのが7000前からですから、その間、誰も経験したことのないシステムを人類は作りつつあるということです。私たち人類社会のシステムが経験したことのない気候システムを私たちは作りつつあるということですので、地球環境にとっては大したことではないけれども、人間社会にとっては、まったく予想できないことに直面しなければならない可能性があります。
寒冷化することによってマルハナバチや草原の植物たちが日本列島に入ってきました。第四紀になると氷期と間氷期が繰り返されるわけですが、氷期には日本列島周辺では寒冷で乾燥した気候でしたので、草原が広がります。間氷期や現代も含まれる後氷期は温暖で湿潤な気候になりますので、森林が広がります。
なぜ草原は残ったか? ● 私が持った疑問は「草原はなぜ残ったか?」ということです。かつて、人が田畑を切り拓いて、肥料として草や木を伐っていたので草原ができたということはわかります。謎は別のところにあります。例えばオオルリシジミという草原性のチョウがいますが、日本にしかいない亜種です。大陸には別亜種がいます。1万年以上、どうやってオオルリシジミは生きてきたのか? 縄文時代に草原があっただろうか? どうやって縄文時代の草原は生きてきたのか?
他にもキジムシロ、ワレモコウという草、チャマダラセセリというチョウがいますが、これと同じものが中国の温帯草原にもいるそうです。中国の温帯草原にいるものが、長野の開田高原にもいるのはなぜか?
よく言われているのが、半自然草原は火入れをしたり、採草したり放牧したりすることで維持されていたということです。明治時代には国土の30パ-セント以上が草地だったという人もいますが、ここでは17パーセントという数字を使います。これは黒ボク土という草原性の土壌が国土に占める面積です。その半自然草原が現在では1パーセントに減っています。草原のタイプによって生えている植物も違います。写真の自然草原は高山植物の生える自然草原ですが、そこにはチングルマのような高山植物が生えています。人工草地にはコスモスのように人が植えた植物が生えます。半自然草原にはキキョウのような半自然草原特有の植物がみられます。こういう半自然草原の生態系が1万年間、どうやって生き残ってきたかなんです。
日本の高地面積と人口を重ね合わせたグラフを見ると、ほぼ重なっていまして、江戸時代には耕地面積と人口が急増します。この時代に刈り敷きという、草を刈ってきて田畑の肥料にするというなりわいが大きく拡大したことが明らかになっています。放牧が日本で始まったのは古墳時代からであると考古学的な資料から言われています。とすると、放牧、草刈以外の草原の維持は火入れしか考えられないのですが、火入れはそれ以前からあったのだろうか?と思ったのです。
黒ボク土は火入れによって ● 1999年に、このことを強く主張する論文が出ました。その後、多くの議論を経て、今ではほぼそうだろうといわれていますが、黒ボク土は縄文時代以降に生成し、長く草地だった場所にできる。その中に微小な炭がたくさん含まれる。火入れが黒ボク土の生成に関与しているということです。かつての土壌学では、黒ボク土が草原土壌だということは認められていましたが、それが人間の火入れとかかわっていることは考えられていませんでした。ここ20年の議論でほぼ定説になりました。黒ボク土が霧ケ峰にもあります。霧ケ峰の北に和田峠があり、この近辺では黒曜石という遺物が出ます。旧石器時代から縄文時代にかけて狩猟につかわれた矢じりの原料として使われていました。日本各地に運ばれていたこともわかっています。矢じりの形が時代によって変わるので、発掘してみると、旧石器時代の黒曜石の矢じりが地面の下のほうから出てきて、その上から縄文時代の黒曜石の矢じりが出てくるわけですが、旧石器時代から縄文時代に変わるところで、土の色も黄土色から黒く変わっています。黄土色なのはローム層、黒いのが黒ボク土です。黒ボク土が火入れによって生成されたとすると、縄文時代に入って火入れが始まったということです。実際に測ってみると、黒い部分の一番下が5000年前、縄文時代中期であることがわかりました。そこから化学成分の変化を見ていくと、連続的に変化していることがわかりました。ここでは縄文時代から連続して野焼きが行われてきたことがわかりました。このころから野焼きが続いてきたから、霧ケ峰は今でも草原なんだということです。
開田高原では野焼きが今でも行われておりまして、草原のがけを見ると、そこに分厚い黒ボク土があるのがわかります。野焼きをすると夏には草が大きく育って、開田高原ではそれを馬の餌に利用しています。同時に、そこが多様な動植物の生息地になっていて、昆虫の希少種もいます。
黒ボク土の全国的な分布をみると、古代から近世にかけて放牧地であったところとほぼ重なるとことがわかってきました。
万葉集と草原 ● 万葉集に野の風景がたくさん出てきます。今朝は万力公園を歩いてきたのですが、万葉集に詠われた植物がたくさんあって、いいなあと思いながらきました。その中に
「春の野にスミレ摘みにと来しわれそ 野をなつかしみ一夜寝にけむ」
という山部赤人のうたがありましたが、このような野の風景って万葉集にいっぱい出てきます。ほぼ半自然草原であるといわれています。代表的なものが秋の七草をうたった山上憶良のうたですね。
「秋の野に咲きたる花を 指折り かき数うれば七草の花」
「萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝顔の花」
ご存じのように尾花はススキです。今でいう朝顔は当時ありません。キキョウのことだといわれています。この中でフジバカマやキキョウは国や地方の絶滅危惧種となっています。クズやナデシコ、オミナエシ、フジバカマ、キキョウは薬草としても使われました。クズからは葛根湯が作られます。
柿本人麻呂が草刈りと野焼きと馬を連続して3つうたっているうたがあります。私、大好きなのですが・・・
「ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とそ来し」
「ま草刈る」は「荒野」の枕言葉だそうですが、文字通りにとると、草刈りをしている野ということです。
「東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ」
このうたは野焼きの風景だ!と思ったのですが、解説書を見ると、そうじゃない、東の空が明け染めてくる様子をうたっているんだというのが定説のようです。江戸時代の国学者の解釈で、それが定着しているのですが、2013年の岩波文庫の解釈が変わっていたんのです。炎は「けぶり」と読んで、実際に野に火を放っているんだという解釈でした。狩猟に伴う火入れをしているんじゃないかということです。
「日並の 皇子の尊の馬並めて み狩立たしし 時は来向かふ」
馬を並べて、狩りを始める、今まさに始めるぞというシーンをうたった歌です。
3つのうたをつないでみますと、草刈りをしている野原に来て、夜明けに火を入れて、馬に乗って狩りを始める・・・そういうシーンだと読めます。
中世の神事と草原 ● そんなことを思わせるような神事が中世の阿蘇で行われていたという研究があります。春に野焼きをして炎によって追い出されてくるイノシシやシカを、馬に乗った武者が弓で射るんです。そうやって焼けた跡の野原に草が生えてくるので、そこを牧つまり馬の放牧地にしたという神事です。中世の阿蘇は阿蘇神社の荘園だったそうです。
霧ケ峰は諏訪神社の影響が大きいところですが、旧御射山遺跡というのがあって、中世の狩りの神事が行われていたといわれています。ここは当時の文書が残っていませんので、どんな神事であったかはわからないのですが、丘が段状になっていて、ここに桟敷がありまして、そこに東国の侍たちが集まって、流鏑馬のような狩りの神事を見物していたと想像されています。神事で使われたかわらけなどが出土しています。これは私の想像ですが、周りの山に火を放つと、広い八島ヶ原湿原に動物たちが出てきて、それを馬で追いかけてきて、桟敷席のちょうど前の狭い通路のようになっているところで弓で殺す、その神事を桟敷で見物したのではないかと想像しています。
近世の刈り敷 ● 中世のことは文書がなく、わからないのですが、近世になるといろいろなことがわかってきて、「善光寺道名所図会」という古文書の中に、背後の里山から草や木を刈って、田畑に入れて、肥料として使っている様子が描かれています。これを刈り敷というのですが、このように草を肥料として使う農業が江戸時代には全盛期を迎えます。研究によっては田畑の5倍から10倍の面積の草山が必要であったという人もいます。別の研究ですが、当時の村落の周辺の山の5割とか7割は草山や柴山、つまり高い木がほとんどない山だったといわれています。その結果として秋の七草がみられるような草原があったわけですし、馬が放たれているところではレンゲツツジがあったりしました。
明 治 以 降 ● 江戸の終わりになると、西洋から外国人が来るようになりまして、書き残しているものがあるのですけれど、たとえばアーネスト・サトウは日記の中でこう書いています。
村を出てからもしばらく道に沿って家が 並んでいたが、それを過ぎると一本の 木もない草深い荒地を通り抜ける。 点々と茂みがあり、鐘のような形をした 桔梗の花が咲いているところは真青に見えた。
(1878(明治2)年の塩尻 桔梗ヶ原 アーネスト・サトウ「日本旅行日記」庄田元男訳)
一面真っ青になるくらいキキョウが咲いている草原だったそうです。軽井沢の当時の写真を見ても、当時に比べ、今は木がいっぱい生えていることがわかります。当時は草原でした。
このように20世紀中ごろまでは人の暮らしを結びついた半自然草原があったわけですが、それが消えつつあります。長野県のレッドリストの2002年版と2014年版を比べて、絶滅の主要因がなんであるかを調査集計してみたら、2002年では第2の危機(里地里山などの手入れ不足による自然の質の低下)の割合が18%でしたが、2014年には34%と、割合が高まっています。それだけ、危機が進行しつつあるということです。 木曽ですと、春に野焼きをして、秋に草刈りをして、それを餌として在来馬を飼うという生活をしていたのですが、その結果として半自然草原が保たれてきました。盆棚に盆花を供えるという風習もありました。
ここまでのまとめ What? 草原の何とつながるか?… 2. 草原利用の歴史と文化
半自然草原: 草原の文化:
氷期の植物・昆虫の避難所 狩り場・放牧地・採草地
縄文時代からつづく(黒ボク土) カヤ、まぐさ、肥料、盆花、薬草
火入れ・放牧・草刈りで維持 和歌(秋の七草など)、浮世絵
絶滅のおそれのある種が多い
草原の保全が人の暮らしや文化に結び付いていることを意識するかしないかで、草原の価値の感じ方って違ってくるのではないかと思います。それを生かした形での草原とのつながり方を、これから考えられないかなと思っています。
◆草原とつながり直す
霧ケ峰の場合 ● 2005年、霧ケ峰には一面のオオバギボウシが咲き乱れている場所がありました。トラマルハナバチやウスリーマルハナバチが来ていました。草原の生物多様性ってすごいなと意識し始めたころでした。今はこんなに咲いている様子は見られません。ニッコウキスゲも同様です。いっぱい咲いていました。「こんなのもう2度と見られないんじゃないか」とおっしゃる方もいて、「不吉なことをおっしゃるなあ」と思いましたが、本当になってしまいました。ニッコウキスゲにもウスリーマルハナバチが来ます。
霧ケ峰は黒ボク土で、縄文時代から火入れが行われていましたし、中世には狩りの神事が行われていました。霧ケ峰に来られる方の多くはマイカーや観光バスで来て、広々とした空間を楽しまれて、帰っていきます。どんな植物が生えているかとか、どんな歴史があってとかについては、情報が十分伝わっていない、発信も十分ではないところがあります。そこで、それらを伝えたいなあと思っています。
火入れについては、ずっと行ってきたので続けたいと思っている人が多くて、中断していた野焼きを2000年代の初めに復活させていたんです。が、2013年の火入れで、大延焼を起こしてしまい、10ヘクタールの予定が220ヘクタールも焼いてしまいました。市役所が音頭をとってやっていたので、もうやめましょうということになってしまいました。燃えたことによって、花は復活するよねと期待しました。実際、燃えたところでは青々と草が伸びてきたんです。でも、花は減ってきました。それは野焼きのせいだけではなく、その前からシカの増加もあったからです。
シカの食害が深刻化するとともに、2007年ころから観光客も減ってきました。霧ケ峰の草原が維持されてきたのは観光資源としての価値が高いからです。ですから、観光資源としての草原を守ろうという発想を生かす必要があると考え、防鹿柵でお花を守ろうという活動が地元の皆様方の手で急速に拡大しました。2007年に研究所で試験的に作った総延長50メートルの柵が最初でしたが、その後さまざまな方々の手で2018年には総延長15キロメートルにまでなりました。柵の中では花がびっしり咲いています。ニッコウキスゲが多くなったことはわかっていましたが、他の植物や他の動物も含めて、生物多様性がちゃんと戻っていているかどうかはわかっていませんでした。
そこで東京大学や神奈川大学、兵庫県立大学、森林総合研究所といった方々と共同研究しました。柵の中と外を、何か所かで定量的に調べました。その結果は乙女高原と同じです。柵を作ると花の多様性・量・種類数・絶滅危惧種の種類数、チョウ・マルハナバチの種数・個体数、いずれも圧倒的に柵の中が大きかったです。こういうことがわかりましたので、観光資源としても使える!と、さらに柵作りが広がりつつあります。
こういった取り組みを観光客の方々はほとんど知らないので、それをなんとかしたいと思いました。価値を可視化しようと、本年度プロジェクトを立ち上げました。具体的には、観光客の皆さんに伝える媒体…マップですとかウェブサイト…を作ろうということですが、現地でワークショップをしました。研究者ばかりでなく、観光協会の方や地元のビジターセンターの方、ガイドさん、外国の方も観光に来られますのでブラジルの方・マレーシアの方にも一緒に歩いてもらい、どういうところが見どころになるのか、歩きながら話し合い、さらに室内でも話し合いました。
また、大延焼した場所とは違って、地元の人々が小規模ですが野焼きを続けてこられた場所があって、そこにいい草原が残っているのですが、高齢化が進んで担い手がいなくなったことから野焼きを止めた場所があります。現状だとまだいい状態なので、なんとかならないかと話し合っています。
ガイドマップを作っているのですが、今までは花の情報とコースタイムしか入っていませんでしたが、火入れや黒ボク土、狩猟神事や遺跡、花々の種類、防鹿柵の効果も入れ込みました。英語版と日本語版です。上高地にも外国人は行くのですが、上高地は見ただけで分かる原生的な自然です。一方、霧ケ峰は歴史やどうやって保全していくのかという情報まであることによって、興味を持ってもらえると思っています。
ここまでのまとめ How? どう草原とつながるか?… 3. 草原とつながり直す ①霧ヶ峰
長い歴史:縄文時代からつづく火入れ 中世の狩猟神事とその遺跡
近年の課題:火入れの中止 シカのよる花の食害
新しい動き:防鹿柵による植物と昆虫の再生 ガイドマップで価値を可視化
開田高原の場 合● 開田高原全体で5ヘクタールくらいの草原しかありません。それが何か所にも分かれています。一つ一つはとても小さいです。その一つの草原には超希少種が何種類かあります。保全の方法は2年に一度の野焼きと草刈りです。そうすると、夏にたくさんの花が咲いて、刈った草は木曽馬の飼料になります。人々の暮らしと結びついて、このような環境が維持されてきたことが聞き取りによりわかってきて、県条例による保護区ができています。保護区は0.5ヘクタールしかありません。
ここにはチャマダラセセリがいます。このチョウは外へ出て分散しようとする習性を持っています。飛び出していっても、飛び出した先に生息環境がないので、減ってきています。
ここでチャマダラセセリが生き残っているのは2年に一度の火入れと関係していると考えられています。チャマダラセセリは枯草の中に蛹が潜んで冬を越すのですが、これでは燃えてしまいます。火が入ったあとに、ミツバツチグリやキジムシロのように地面すれすれに出てくる草の葉の裏に卵を産みます。おそらく外へと分散して野焼きがなかったところで蛹がかえって、燃えたところに飛んできて卵を産んでいるのだと研究者は考えています。伝統的な草地管理と結びついて生き残ってきた生き物だといえます。
ですから、保護区であろうと火入れや採草は続けています。草刈りはやる目的がなくなりつつありますので、農家だけではできず、役場の職員や私たちがお手伝いをしています。かつては手鎌ですが、今は機械です。
これだけでは守れないものがあるなあと感じています。木曽馬という在来馬があり、「木曽馬の里」という施設で40頭ほどが飼育されています。ここでは、外から買った草を与えています。地域の野草で飼っているわけではないです。施設の職員の労働ではとても無理です。木曽馬は地域のシンボルでもあり、役場でも重要視していますが、開田高原に来る観光客のほとんどは木曽馬がここにいることを知らないです。木曽馬の施設が国道から少し入ったところにあるからです。ですが、ここに木曽馬・希少種が残っているのは伝統的な形で草刈りをし、草を馬にやるという生活が何百年もつながってやってきたからです。そう考えたとき、なんとか刈った草を馬にやれないかなと思いました。
開田高原では今でも道端に馬頭観音がたくさんあります。かつては馬をとても大切に飼っていました。同じ家の中に、馬も人も暮らしていました。いろりの後ろ側に馬がいたのです。そういう生活が昭和30年代まではあったそうです。その後、家も改修されて、私ぐらいの大人はもう当時の生活がわかりません。地域の文化が記憶の中にだけあって、消えつつあります。
だけど、今でも野焼きはしているんです。けっこういい草原が残っています。毎年焼いています。毎年焼いているので、チャマダラセセリはおそらく焼けて死んでいます。毎年焼いているところが開田高原の中にいっぱいあり、地元集落で火入れをしています。昭和30年代には約5,000haの草原があり、それは当時の開田村の三分の一の面積です。約700頭の木曽馬が飼われていました。 現在は草原 5.2ha、馬は 約40頭です。ほとんどが施設で飼われていますが、個人で飼われている人もいます。その方々は生産の道具としてつかっているわけではなく、ただ馬が好きで飼われています。
草原の維持再生と木曽馬の文化の保存を結び付けられないかと考えました。2018年にその相談を始めました。若い人たち・よそ者が多かったです。
火入れの見学もさせていただきました。イチイの枝で残った火をたたいて消します。お年寄りは火をつけるのに、枯草を束ねてやっています。
火の入れ方にも作法がありました。斜面ですので、うまく火が収まるようにやっています。まず、斜面の一番上を、風下から風上に向けて焼きます。次に風下を上から下に、次に風上を上から下に、最後に下を両側から焼きます。先に焼いたところまで炎が走ると、そこで火が消えていくという寸法です。合理的ですが、地形によって風向きが変わりますし、火を入れると気流で風向きが変わります。相当経験がないと上手にできないなと思いました。一番年配のお年寄りが司令官になっています。知識だけ残っていて、草だけ焼いているという状況です。焼いた跡は、枯草が取り除かれますから、いろんな植物が出てきます。たくさんの花が咲きます。
隔年の火入れ・採草に戻したところは多様性が高まり、草丈が高くなりました。火入れだけをやっていると草丈は高くなります。栄養分が多くなりすぎるのかもしれません。その結果として花の種類は減ります。草刈りだけをやっているところは、何回も刈りますから草丈は低くなり、花の数は少なくなります。ちょうど80センチくらいの草丈で多様性が高くなることがわかっていまして、かつ、そういうところでは昆虫の多様性も高いことがわかりました。伝統的な維持管理方法を導入することが、生物多様性にとってもいいことがわかりました。
3か所で「隔年の草刈り・火入れ」を行うことにしました。県の保護区はコアエリアとして、できるだけ人が立ち入らない状況で保護していこう、その周りに何か所か伝統的な草地管理を導入し、秋の七草などがたくさん見られる環境を作り、開田高原を訪れる人々に楽しんでもらえるようにしようということにし、ツーリズムの観点も考慮しながら場所選びをしました。
草刈りの仕方については知っているお年寄りから学びました。こういったお年寄りを我々は師匠をお呼びしています。身のこなし、草の扱いなど、見ているとため息が出そうです。草を刈って、束ねて、立てて、干すわけですが、身に付けた技として持っていらっしゃいました。天候によって草の湿り気が違ってきます。刈った後、何日も晴天が続く場合は、穂先を斜面下に向けて干します。こうすると、草の露が下に落ちやすくなります。晴天が見込めない場合は、束ねて立てて干して、早めに取り込みます。そして、冬の干し草には使わず、ある程度青いまま馬に与えます。草刈り後の処理の仕方を、このようにその後の天候を考えながら調整しています。
実際に軽トラで草を運んで「木曽馬の里」で馬に与えました。馬たちは今は小さいころから野草を食べ慣れていないので、おなかをこわしたりすることもあるそうです。植物の中には、食べるとダメなやつもあり、小さいころから食べていれば分かって、避けて食べるそうですが、慣れてないとそれも分からないので、飼育員の人たちと相談しながら草のやり方を考えています。
やっていると、とにかく楽しいんですね。ツーリズムの資源としても使えると私は思っています。役場が国道ぞいに馬の放牧地を作りました。そうしたら、観光客が「馬がいる!」って止まるんです。車が行列作って路駐して、写真を撮っていました。
昔のほし草づくりも師匠に学んで行いました。「にご」といいます。干してから、小屋に入れ、冬の間のまぐさや敷草に使います。始めて2年目です。やればできるという実感が持てています。やっている人は十数人程度なんですが、やっている人はみんな手ごたえを感じているし、参加している人が多様です。移住者、お年寄り、馬を飼いたい人・・・。背景が違う人が同じ目的で一緒に盛り上がるというところが、普通の自然保護にはないつながりだなと思います。
昔は野の花を使った生け花も普通にあったそうなので、京都の池坊の生け花の先生を招いて、生け花体験も行いました。希少種は採らないようにして、たくさんあるアヤメや外来種のキショウブなどを使いました。
こういうことを考える時代の背景をもう一回考えましょう。
20世紀: 自然を開発から守る 人口増 工業化 高度経済成長 自然保護
21世紀: 自然と文化をつなぎ直す 人口減 サービス化 持続可能性 価値のシェア
つなぎ直すことををさらに地域づくりにつなげていくことを考えておりまして、デザインという発想がヒントになるかなと考えております。デザインという言葉は最近広く使われるようになりましたが、形をデザインする、機能をデザインするというのが本来の意味です。そういった多様なデザインに共通する要素として、体験の質を高めるということがあります。その発想を広げて、社会問題の解決などにもデザインという言葉が最近使われるようになりました。
もののデザインを掘り下げて考えてみますと、素材があってイメージがあって記号があります。これら全部が結びついたものがデザインです。そこが芸術作品と違うところかなと思っています。服のデザインでいうと、木綿とか化学繊維とかいう素材があって、色とか手触りとか形とかカジュアル感とか高級感といったイメージがあって、それをブランドにする、そのブランド名が記号です。それによって、使ってみたいといった思いが高まるとしたら、それがデザインです。その考え方を地域づくりにも応用できないかなということです。例えば、馬のある地域をデザインして、実際にそこに行けば馬が見られる、体験活動ができるといったことで、文化を可視化する、スト-リー化することができれば、「開田高原は馬と野と花の文化」という地域デザインができると思います。そんな考え方を提案して、木曽町の役場の人たちとグランドデザインを考えています。
ここまでのまとめ How? どう草原とつながるか?…3. 草原とつながり直す ②開田高原
伝統的採草地: 隔年で火入れと採草 希少な植物・昆虫が多い
新しい動き: 伝統的な草地管理を学び・再生 木曽馬の見える開田高原づくり
地域デザイン: 馬と野の花の文化 可視化・体験化・ストーリー化
一地域のことだけでなく、もっと社会全体に広げられる発想につなげられればと思っています。
ヨーロッパでは数十年前から田園回帰が進んできました。農村が大きく変わりました。その中で意識されてきたことは、伝統文化を単なる伝統文化で終わらせるのでなく、多くの市民に開放して現代に通用する文化活動にするということです。ヨーロッパでは、観光地として小都市や農村に、イタリアの場合はアグリツーリズモに向かっていきました。例えばスローフード運動はイタリア発祥の食文化で、伝統的な食文化を再生しています。ワインなど伝統的なやり方で作ったものを、農村に行って民宿に泊まって味わう、そういう新しい観光が生まれつつあります。そういった形で農村の地域づくりにつなげることができる、日本でもできると思います。その社会背景として、日本でも「もの」は足りているから、別のことで人生の価値を見出したいという意識の変化があります。
全体のまとめ 草原: 体験(コト)の価値を生む場 つながりを編み直す場
・自然と文化のつながり
・過去・現在・未来のつながり
・農村と都市のつながり
最後にご紹介したい言葉があります。渡辺 靖さんの『〈文化〉を捉え直す』岩波新書(2015)の中にある言葉で“対外発信の究極の目的は 「コミュニティづくり」である”という言葉です。そういう機会を提供する場として草原があると考えられます。