1月31日(日)、いい天気でした。11時半集合だったので,11時少し過ぎに会場に到着したのですが,もう何人もスタッフが集まっていました。ありがたいことです。そして、いがりさんも。会場では午前中のイベントであるC.W.ニコルさんの講演会が行われていたので、ロビーで(静かに)打ち合わせを行いました。そして、会場外でできる準備を始めました。特に、販売物については、早くセットできればニコルさん講演会の参加者にもアピールできそうだったので、急いで準備しました。講演会が終わり、たくさんの人が出てきました。販売の準備、間に合いました。人だかりができました。ニコルさんとは面識があるので、「お久しぶりです」とあいさつしておきました。
さて、ここで、いがりさんのいがりさんらしさと第一遭遇。
じつは「フォーラムまであと1週間」というタイミングでいがりさんから新しい提案が。「スミレのスライドショーのBGMをギターの生演奏でしたい」というのです。そのためにはいがりさんが持参なさる音響機器のセットをしなくてはなりません。会場準備が朝からできるのならば問題ないのですが,ぎりぎりまでニコルさん講演会です。とても無理だと、いったんはお断りしたのですが、できるだけのことをしたい(=できるだけ質の高いものをしたい)といういがりさんの熱に負けて、「やってみましょう」とお引き受けしました。
いがりさんの機械にさわるわけにもいかず、見守るしかありません。いがりさんはぎりぎりまで機械のセッティングと調整を行い、しかも、リハーサルまで。お弁当を食べるのがだいぶ遅くなってしまいました。でも、リハーサルまでやっていただいたので、「講演会とはいえ、演台はいらないな」とか「ギターを弾くときの椅子が必要だな」ということがわかりました。
さあ、フォーラムが始まりました。参加者は93人でした。
まずは山梨市観光商工課の網野課長さんの司会でセレモニー。市長さんからあいさつをいただきました。
ウエハラがマイクのバトンを受け、進行を引き受けました。例年だと、すぐにファンクラブの活動報告に移るのですが,今回はウエハラのちょっとしたアイデアで、少し話をさせていただきました。
まず3枚の写真を見てもらいました。①先週の乙女高原、雪が積もっています。②普段はただの林と草原としか見えない場所も、③雪が積もると、動物の足跡がくっくり残るので,動物たちの生活の場であることがわかります。
④ここで入り口付近のシカ柵の写真を見てもらい、⑤林の中のシカ柵の写真を見てもらいました。シカ柵の写真を見ているはずなのに、風景に溶け込んでいて,どこに柵のポールや網があるのか分かりません。⑥「市長さん、ありがとう」「担当課の皆さん、ありがとう」というテロップを流しました。
「ついに見つけてしまいました」と、⑦柵の中の足跡の写真。⑧それを追いかけていったら,柵の内外を行き来していました。この柵はシカ(やイノシシやクマ)という大型の獣は入るのをブロックしますが,キツネ、テンなど中型の獣は阻まず、自由に出入りできることがわかりました。柵を作ることによって起きるだろうと考えていた問題のひとつは、じつは起こらないということが分かりほっとしました・・・という報告をしました。
以上,ウエハラのちょっとしたアイデアとは,シカ柵を作ってくれた市長さんはじめ市の担当課の皆さんに感謝の気持ちを表すことと、現時点で分かったシカ柵の有効性を皆さんに伝えることでした。
あとはプログラムに沿って、進行しました。
1.乙女高原ファンクラブの活動報告2015 報告:三枝かめよさん(乙女高原FC)
2.乙女高原の花と虫のリンク 報告:大竹翔子さん(麻布大学野生動物学研究室)
3.乙女高原に新たに設置したシカ柵 報告:山公誌さん(山梨市観光商工課)
4.乙女高原のスミレ お話 依田 昇さん(乙女高原FC, FGスミレ編集代表)
5.スペシャルゲスト いがり まさしさんのお話:生物多様性の妖精「スミレ」のふか~くてひろ~い話
乙女高原フォーラムは「一流の講師の話」と「現場で活動している人の生の声」が車の両輪です。どちらが欠けても成り立たないと思います。「講演会」ではないのです。「フォーラム(=広場)」なんです。
このなかで、研究発表である「2 大竹さんの報告」と、スペシャルゲストの「5 いがりさんのお話」を詳しく紹介します。
●大竹さん 「乙女高原の花と虫のリンク」
※発表したのは大竹さんですが、それを文章にしているのは植原です。したがって文責は植原にあります。
私は2年間、乙女高原に通って調査を続け、卒業論文を書かせていただきました。
今回は、今まで麻布大学で行ってきた研究と、私が2年間調査をしてわかったことを報告させていただきます。
わたしは植物や生態系に興味があり、縁あって乙女高原で調査をさせていただくことになりました。
乙女高原の草原としての特徴を挙げるとすると、日本の草原は、本来温暖湿潤な気候で降水量が多いため、放っておくと、草原から森林に変わっていきます。ですが、乙女高原では、毎年,11月にたくさんの方が集まって刈取りを行うことで、その遷移を止めて、このような草原を保ってきました。
自然のステキな乙女高原ですが、近年はその様子に変化が見られると言われるようになってきました。その原因はなんだろうか? 全国的にシカの増加が指摘されていますが、山梨でも10年前と比べると,シカの目撃率、捕獲率が増加していると言われておりまして、乙女高原でもシカが花を食べてしまっていて、きれいな花が見られなくなってしまったよ-といった声が挙がるようになってきました。
乙女高原では本当にシカが増えているのか? シカが増えたことでどんな影響があったのか?-を実証するために、麻布大学が調査に入らせていただきました。
◆麻布大学のこれまでの研究
まず、ほんとうに乙女高原でシカが多くなってきているのかを高橋先輩が研究をしました。乙女高原でシカの糞がたくさん発見されたこと、乙女高原の笹がたくさん食べられていること、これらのことから、乙女高原でシカが増えていることが分かってきました。
2003年と2014年の乙女高原の同じ場所・同じ時期の写真を比べてみると、明らかに様子が違っています。2003年はきれいな花がたくさん見られましたが、2014年はススキばかりの草原になってしまっています。きれいな花は虫によって花粉が運ばれているので虫媒花と呼ばれていますが、シカが入ることによって、どうしてこの虫媒花が見られなくなってしまうのか、それを確かめるために刈り取り実験を行いました。草原の中に刈り取りの区画をいくつか作り、時期を替えて刈り取りを行いました。この実験では宮原さんをはじめとする乙女高原ファンクラブの皆さんにご協力をいただきました。ありがとうございました。
刈り取り実験と同時にマーキング実験を行いました。いくつかの種類の植物に印を付けて、根元から少し上のところを切断し、その後、どうなるかを観察しました。マーキング実験の結果、ススキやクガイソウはすべての株が生存していましたが、ヤマハギやキンバイソウは数が減ってしまいました。タムラソウやワレモコウ、ハンゴンソウといった多くの植物は枯れて、全滅してしまいました。なぜ、こういうことが起こるかというと、植物の生長点の場所に関係あると思われます。植物には生長点があり、そこから細胞が生まれて、生長します。ススキなどの植物はその生長点が根元の部分にあるのですが、多くの双子葉草本は植物の先端に生長点があるため、体が途中で切断されてしまうと、生長ができず、枯れてしまいます。しかし、ススキは根元に生長点があるので、刈り取られても回復できました。
乙女高原では11月に草原の刈り取りをしていますが、このころには植物は種を作り、次の世代に命をつないでいます。この時期以外の刈り取りでは、植物にダメージがあると考えられているのですが、いったいだれが刈り取りを行っているのかというと、シカであると考えられます。シカが見られなかったときは双子葉草本がたくさん見られる草原でした。しかし、草原にシカが現れて、植物を食べてしまうと、植物の先端部分が無くなってしまいます。その後、しばらくすると、根元に生長点があるススキは回復し、数を増やしていきましたが、双子葉草本は枯れて、数が少なくなってしまいます。
乙女高原がススキの優占する草原になってしまったのは、このことが原因であったと考えられます。
皆さんが一番気にしているところだと思うのですが、「シカは花の数をどのくらい減らしているのか?」については、加古先輩が研究を行いました。シカ柵の中と外で、どのくらいの数の花があるのかを数えて、比較するというものです。虫媒花が減っていれば、訪花昆虫とのつながりにも影響があるのではないかと考えて、調査を行いました。
その結果、1㎡あたりの花の数は、柵外では3個、柵内では319個。柵内には柵外の100倍もの花が咲いていることが分かりました。
◆わたしの研究
花の数が減っているということは、そこに暮らす昆虫たちにも影響があると考えられます。そこで、わたしは、花に来る昆虫への影響について、加古先輩の調査よりさらに踏み込んで調査しようと考えました。 ここでは、花と虫の結びつきのことを「リンク」と呼ぶことにします。
シカ柵内外に、それぞれ20mの観察ルートを設定しました。一定の距離を少しずつ移動しながら、そのルートに来ていた訪花昆虫と花の名前を記録しました。
年間を通して、柵内の昆虫が多い傾向がありました。しかし、詳しく見てみますと、時期によって状況が少しずつ違ってきます。
5月から6月にかけての春先は、ちょっとした逆転現象が起きていて、訪花昆虫全体は少ないものの、柵外で訪花が多く見られました。この時期に咲いているのはキンポウゲやミツバツチグリです。特にキンポウゲへの訪花がよく観察されました。明るく、開けたところが好きな植物は柵外でも花が観察されて、そこに来る虫の姿がよく見られました。
6月から7月の始めは、柵内の花に来る虫が多かったです。しかし、訪花の回数が20回を超えることはありませんでした。この時期にはキンポウゲやアヤメが咲く時期で、これらへの訪花が見られました。
7月下旬から9月下旬にかけてはたくさんの虫媒花が咲く時期ですが、柵内への訪花が一気に増えました。時期によっては訪花が100回を超えることもありました。7月からはワレモコウ、9月に入るとアキノキリンソウにハチが来ているのがよく観察されました。9 月中旬には、柵内は柵外の約12倍の昆虫が観察されました。10月ともなりますと、花の季節は終わりです。リンドウがきれいに咲く時期ですが、これにはルリハムシという甲虫が多く訪花します。この時期になると花の数も減るため、柵内外とも花に来る虫が減ります。
年間を通すと、柵内に来る虫の数は柵外の5倍でした。
ですが、柵外でも、マルバダケブキやハンゴンソウなど、シカの影響によって減らなかった、もしくは増えた植物がありまして、柵内よりも多くの訪花昆虫が確認されました。したがって、一部の虫媒花のリンクはシカによって減少しなかったことがわかりました。
どんな花にどんな虫が来ていたかを詳しく見てみると、柵内ではアキノキリンソウと小さなハチ、ワレモコウとハナアブといったリンクが強いことがわかりました。訪花回数が5回を超えるリンクも多くありまして、複雑な関係性を示していました。
しかし、柵外では、花の種類も少なくなり、昆虫の数も減っていますし、昆虫と花のリンクも一気に減ってしまいました。しかし、カワラナデシコについては、柵内では5回以上の訪花は見られなかったのですが、柵外では5回以上のハナアブの訪花が見られました。
◆麻布大学の調査~まとめ
乙女高原でも多くのシカが生息し、そのシカが虫媒花を減らし、ひいては、花に集まる昆虫の数も減らしていることが分かりました。しかし、シカを排除した柵の中では、虫媒花の数が回復し,昆虫との関係もより複雑化していることがわかりました。また、解析途上ではありますが、花の形によって来る昆虫が少しずつ違っていることも分かってきました。
昨年の秋に草原全体を囲うシカ柵ができましたが、この柵内でも数年の時が過ぎれば、多くの虫媒花が回復し、花にまつわる関係も複雑になっていくのではないかと推測されます。多くの生物たちが息づく乙女高原で調査ができたことをとても光栄に思っています。乙女高原ファンクラブの皆様をはじめ、多くの皆様に優しく見守っていただき、調査を行うことができました。ありがとうございました。
いよいよスペシャルゲストいがりまさしさんのお話です。ファンクラブ世話人である小林さんからプロフィールの紹介があり、そのあと、始まりました。なお、お話したのはいがりさんですが、それを文章にしているのは植原です。したがって文責は植原にあります。
●いがりさん 「生物多様性の妖精・スミレのふか~くてひろ~い話」
◆乙女高原との縁
忘れもしない1991年、その年は、わたくしがそれまで勤めていた印刷会社をやめて、植物写真家という生きようと歩きだしたその年だったのですが、名古屋市で行われました日本自然保護協会の自然観察指導員講習会を受講しました。2泊3日で、いろんな先生が来て、自然観察の仕方を教えてくださるんですが、そのときの講師のお一人が植原さんでした。そのときの植原さんの講習は今でも印象に残っています。ネイチャーゲームを駆使して、とてもわかりやすく、小さなお子さんでも自然に興味を持たれるだろう、そのやり方というのは、今思えば、今、わたくしがツアーに行って皆さんにお話したりする大きな礎(いしずえ)になっているのかなという気がします。
そのときに、植原はさんが話されていた乙女高原に実際に行ってみたいなと思いました。それから何年後ですかね、ちょくちょく来るようになりました。通り掛かってみて、ちょっと時間があるから乙女高原へ行ってみようということで寄るようになりました。
これだけたくさんのキンバイソウが見られるところって、そんなにないです。キンバイソウはどちらかというと大陸系の植物ですが、キンバイソウ自身は日本の固有種です。しかも、本州中部にしかありません。伊吹山や霧ヶ峰なんかにもありますけど、乙女高原ほど数が多くなくて、わたくしは乙女高原というと、真っ先にキンバイソウの花が思い浮かびます。
そんなふうに乙女高原に来ていたんですが、2008年だったと思います、NHKの「趣味の園芸ビギナーズ」という番組に出ることになりまして、東京からある程度近くて、撮影の舞台になるようなところがないかと探していたところ、真っ先に思い浮かんだのが、キンバイソウの季節の乙女高原でした。そんな理由で乙女高原を訪れたこともありました。確か、そのときに植原さんにお会いしていたと思います。
それが今日につながっていて、思えば長いご縁だなあと思います。
◆スミレが妖精?!
さて、今日お話するのはスミレ・・・「生物多様性の妖精」というのが付いていますけどね、これをフェイスブックで紹介しましたら、わたくしのスミレ友達から「え、スミレが妖精・・・どういうことだ!?」というクレームが付きました。中国語で妖精というのは、もともと悪魔という意味なんだそうです。英語のフェアリー(fairy)というのも、日本語の妖精というのとちょっとニュアンスが違います。妖怪に近いですね。ただ、悪魔ほどではなく、ときどき出てきていたずらをするといった感じの存在が英語のフェアリーです。どちらもスミレに対しては使わないかもしれません。日本人の独特な考え方かもしれません。
◆日本はスミレの都である
日本はスミレの都である・・・こんなコトバがあります。これは大正から昭和にかけて活躍した中井猛之進(なかいたけのしん)という植物学者が残したコトバです。中国東北部や朝鮮半島の植物もよく知っていた猛之進は、日本列島はスミレがとても多いということを書き残しています。どのくらい多いかといいますと、60種です。種というレベルで60です。乙女高原のスミレ・リストにあるソラムキタチツボスミレは種レベルではタチツボスミレに含まれますし、ヒナスミレとフジスミレは変種関係なので、2つとも同じ種ということになります。
ただ、これも人によって違うんですよね。人によっては56種という人もいます。分類の立場による違いです。62くらいにはなるんではないでしょうか。
アメリカは82種です。アメリカの方が多いんです。中国には108種。もっと多いですよね。中国ではまだまだ見つかっていない種があり、増えるんじゃないかと思います。150くらいはいくんじゃないかと思います。オーストラリアは8種です。
確かにオーストラリアに比べれば、日本のスミレは多いんだけど、アメリカに比べれば少ないじゃないかと思われるかもしれませんが、面積を比べると、オーストラリアは日本の20倍です。オーストラリアのスミレ友達が日本に来たことがあるんです。「日本に来たら、きっとびっくりするよ。一カ所で10種も20種も見られるところがあるよ」と彼にいったら、「おまえがオーストラリアにきたら、もっとびっくりするぞ。1種見るのに何百キロも走らないとならないぞ」といってました。20倍の面積で8種ということは、そういうことなんでしょう。
アメリカの面積は25倍、中国は26倍。面積を考えると、確かに日本の60種というのは非常に多いです。
数年前に亡くなった、わたくしのスミレ友達のアメリカ人がいます。彼女はオーストラリアの市民権を持っていて、アメリカに住んでいて、長年ヨーロッパに住んでいました。行く先々でスミレを観察していて、日本や中国にも何回も来ています。彼女に「日本以外で、一カ所でスミレが10種類以上見られる場所があるか?」と聞いたら、「ある。アメリカに一カ所ある」と答えましたが、「いやまて」と数え直して「違った、9だ」と。一カ所でスミレが10種以上見られる場所は、日本以外知らないそうです。
わたくしは、ロシアの沿海州で、一カ所で12種のスミレを観察したことがあります。ちょうど乙女高原くらいの広さのところで12種です。それ以外では、最近,外国でミスレを見る旅をすると、一回で1種新しいものが見られる程度です。1か所でたくさんのスミレが見られる場所がたくさんあるということで「日本はスミレの都である」というのは正しいと思います。
◆なぜ、日本列島はスミレの種類が多いのか?
まずは気候帯が多様だということです。
それを近縁の3種のスミレの分布を例にとってお話します。3つの中で、乙女高原にあるのはアケボノスミレだけです。ナガバノスミレサイシンは西日本の太平洋側が産地です。スミレサイシンは日本海側。雪の降るところです。東北の北の方まで行きますと,太平洋側にも出てきます。そして、2つの分布域のちょうど真ん中、太平洋側でもなく日本海側でもない内陸で、雪もある意味少ない場所に出てくるのがアケボノスミレです。山梨県・乙女高原は典型的なアケボノスミレの生育環境です。まあ、乙女高原は標高が高いですから雪は降りますけどね、日本海側に比べると少ない積雪量です。
このように近縁のスミレが棲み分けておりますが、ナガバノスミレサイシンは雪が少なくて雨が多い雑木林、この近くだと、奥多摩・武蔵野あたり。高尾山なんかがナガバノスミレサイシンの多いところです。
スミレサイシンは雪国です。新潟県の高柳町などです。
アケボノスミレは雪が少なくて、冬寒いというところです。埼玉県の秩父などです。日本海側や太平洋側と比べると、森の中がとてもきれいですよね。雪が少なくて、寒さが厳しいと、下草が枯れてしまいます。ですから、森の中が静かな感じになります。
3種のスミレの分布域の気候を比べてみましょう。代表して名古屋(ナガバノスミレサイシン)、松本(アケボノスミレ)、新潟(スミレサイシン)です。平均気温は名古屋>新潟>松本となります。降水量は名古屋と松本は∧型になりますが、新潟は∪型になります。名古屋と松本は形は似ていますが,名古屋は1500ミリぐらい、松本は1000ミリぐらいです。この1000ミリというのは、日本の主要都市の中で一番少ない降水量です。網走、福島なども1000ミリくらいです。
南北に長いというのも、日本にスミレが多い理由です。
気候帯という視点でみると,一番北は亜寒帯、東北地方や北海道南部は冷温帯です。本州の多くは暖温帯、九州の南部から南西諸島にかけては亜熱帯。さらに、高山帯には寒帯という、ほとんど樹木の生えないところもあります。熱帯以外の気候帯が日本列島には存在しているわけです。そういった意味で、日本の気候帯はとても多様です。
北海道と南西諸島が日本でなかったらどうなっていたかを考えてみましょう。北海道には5種の固有種があります。南西諸島には6種です。ですから、日本のスミレは11種少なくなってしまいます。
起伏が激しいのも理由のひとつです。
わたくしは今日、東京方面から車で走って来ましたが、北岳が白く輝いていました。白根三山とは、これを見て名前が付いたんだなあと思いました。イギリスのグレートブリテン島を上から下にバサッと切って、断面を見てみますと、起伏があまりなく、なだらかなことがわかります。日本列島も切って断面を見てみると,高い山があるし、起伏の激しいことがわかります。
起伏が激しいと、こんなことが起きます。キバナノコマノツメという、スミレの仲間の中では唯一、名前に「スミレ」が付かないスミレがあります。葉の形が馬のひづめのようだということで「駒の爪」です。高山植物といっていいと思いますが、珍しいスミレではありません。北半球であれば、一定の標高以上、一定の緯度以上であれば、たいてい出てくる普遍種なんです。ただし、ちょっと高いところでないと見られないので、本州中部の都市に住んでいる人にとっては、ちょっとあこがれのスミレです。
北海道から九州まで見られます。一番南は屋久島の1900m以上のところ、もっと南、台湾にも分布しています。四国にも一カ所あります。1700mくらいのところです。紀伊半島にもあります。四国と同じくらいの標高です。中部山脈に来ますと,1700mくらいから出てきます。乙女高原にはないですよね? 乙女高原の標高でも、谷筋だと出てくることはあると思います。東北に行きますと1300mくらい。だいぶ低くなりましたね。北海道中南部で700m、北部になりますと、普通の里山みたいなところにもあります。礼文島に行きますと、海岸からすぐのところにもあります。
このように一定の緯度・標高があれば必ず出てくるスミレなんですが、イギリスみたいな平坦な島だとキバナノコマノツメが分布しているところはほとんどありません。
◆キスミレの話
ここからちょっとキスミレの話をしたいと思います。さきほどのキバナノコマノツメは高山植物でしたが、このキスミレはむしろ低い山にあるスミレです。山梨県はキスミレの分布域の東北限になります。
愛知県にもあります。愛知県の現存する自生地は一カ所だけです。むかしは100株くらいありましたが、今は30株くらいでしょうか。かろうじて残っています。ここは草刈りをして、キスミレ群落がやっと保たれています。
キスミレに関しては、興味深いことにウワサが多いんです。写真を見せると「子どものころに、○○で見たことがある」「遠足で行った○○山で見た」「東海道線のバラス(線路に敷く砂利)のところで咲いていた」「子どものころに河川敷で見た」「豊橋動植物公園が公園になる前に、雑木林があって、その中に草原・茅場があり、そこに咲いていた」などです。公園の話に出てくる草原というのはまさにキスミレの生育環境としてドンピシャリです。70歳くらいの方の、戦後すぐのころの記憶ですから、間違いないと思います。わたくしが聞いた範囲ではこれくらいですが、おそらく、戦後すぐのころにはキスミレはもっとたくさんあったのではないかと思います。
標本が残っているところもあります。一カ所は開墾によってなくなったところです。もう一カ所はうわさ話なので、少し差し引いて考えなくてはなりませんが、戦後すぐのころの植物採集会で、リーダーが「あ、キスミ・・・」と言ったところで参加者がみんなで採って、なくなってしまったというものです。そういう話が残っています。かなり大げさだとは思いますが、乱獲があったことは事実だと考えられます。
このように、戦後すぐにはほうぼうにキスミレの生息地があっただろうと思っています。キスミレの生息地・元生息地をみると、全部里山なんですよね。手つかずの山では見つかっていないんです。生息地が里山ばっかりだったから、戦後の開発ですべてなくなっていったということもあるんですが、とにかく近年急激になくなっています。
キスミレの分布は世界で東アジアだけです。日本と朝鮮半島と中国東北部、ロシアの沿海州。一番北は北緯50度。北海道よりずっと北です。サハリン南部です。日本の北限は山梨県です。北緯35度くらいです。どうして、キスミレは日本では東北や北海道まで分布を広げられないのか? この疑問が残ります。
南は宮崎県まで分布していて,熊本の阿蘇が有名な産地です。雪の少ない地方なんですね。新潟や山形にはオオバキスミレという別の大型のスミレがあります。で、草原や明るい林に生えます。そうなると、乙女高原と関連してきますが、こういうところは日本には少ない環境なんです。日本の降水量だと放っておくと森になってしまうので、人が手を入れない限り草原はなかなかできません。
キスミレが多いところの代表として、わたくしがよく行くウラジオストックと日本の気候を比べてみましょう。ちょうど松本と似ているんですね。雨は冬より夏に多いけれど、全体の降水量は少なくて750ミリくらいです。松本が1000ミリくらいですから、松本より少ないです。日本で降水量が750ミリというところはありません。降水量が少ないですから、森がとても「きれい」なんです。笹がないということもありますが、全体に植生が薄いといいますか、森の中に藪がなく、すいすいと歩けてしまいます。チシマフウロやアツモリソウが咲いていました。さらに内陸に行きますと、もっと降水量が少ないところがあります。中国との国境近くだと、おそらく年間降水量が500ミリくらいです。もともと草原だったというわけでもないようなのですが、いったん森を伐ると、簡単にはもとに戻らない。放っておいても草原が続いてしまう、それくらいの降水量だと思います。
わたくしは樹木が苦手で、日本の観察会で樹木の名前を聞かれても困るのですが、ここに来ると3つ覚えれば済みます。ヤエガワカンバとモンゴリナラとヤマナラシ(チョウセンヤマナラシ)です。ただ水辺に行くと、ヤナギが何種類かありますけどね。それくらい森林植生が希薄です。
阿蘇では2月下旬から3月上旬にかけて山焼きをします。山焼きをやって黒焦げたところにキスミレがたくさん咲きます。阿蘇の降水量は年間3000ミリくらいです。ですが、山焼きをやっているので、キスミレの生育環境が保たれているというわけです。山焼きをやめると、おそらく、長くても100年くらいでキスミレがなくなってしまうと思われます。阿蘇でも山焼きができなくなっているところが非常に増えていまして、今、そういったところでは、キスミレのような草原性の植物が住む場所を失っています。
一方、ウラジオストックの降水量は750ミリくらいですから、山焼きをやらなくても自然に疎林や草原が保たれるんですね。それで、キスミレがどこでも見られるというわけです。
◆日本列島の降水量はなぜ多い?
まず、日本列島にたくさんの雨が降るわけを説明したいと思います。
日本列島のまわりの気団は、まず、北東にオホーツク気団(高気圧)。6月7月にこれが張り出すと、東北に飢饉が起きます。冷たい高気圧ですね。
北西にはシベリア気団。これが張り出してくると冬型の気圧配置になって、日本列島に雪や北風をもたらします。
南西には揚子江気団。これは移動性高気圧で、春と秋におおわれると3日間くらい晴れが続きます。
南東には小笠原気団。太平洋高気圧ですね。それから南に熱帯気団。台風をもたらします。
このようにいろいろな気団に取り囲まれているんですが、ちょうどそのはざまに前線帯ができやすいんですね、梅雨前線にしろ秋雨前線にしろ。北海道には梅雨がないとよく言われますが、たしかに前線帯からはぎりぎり外れています。ウラジオストックも前線帯から少し外れていますが、ときどき、かかることがあって、そういうときは大雨になります。現在の東京の降水量グラフをみると,ピークは6月と9月です。梅雨と秋雨なんですね。ウラジオストックのピークは8月です。梅雨前線が8月にかろうじてウラジオストックにかかるからです。
2万年くらい前(最終氷期)は、これらの気団は全体的に南に下がっていただろうと考えられています。そうすると、前線帯も南にずれますから、日本列島にはかかりません。当時の日本列島は寒かっただけでなく、乾燥していたと推測されます。
もうひとつ。雪の降る仕組みです。
日本海の上をシベリアからの風が吹いてくると、新潟などの山に当たって、雪が降ります。
この大きな要因は対馬暖流です。対馬暖流が日本海に流れ込んでいるので、日本海は温かい海になっています。湯気が湧いているようなところに風が吹きますから、とても湿った風が日本に吹いてくるわけです。それでたくさんの雪が降るというわけです。ちなみに、世界の最大積雪記録は日本の伊吹山で11mだそうです(1927年2月14日に積雪量1182cm)。また、世界の豪雪都市(小さい町は除く)上位3位はすべて日本です。青森・富山・札幌です。それくらい日本列島は雪が多いということです。もっというとね、冬季オリンピックの開催地で、最も低緯度だったのが長野です。緯度が低いのに雪がたくさん降る。結果として、夏に30℃になるのに、冬に3m雪が降るのが新潟みたいなところで、世界でも稀なエリアなんです。
氷期の日本列島がどうなっていたかというと、列島が大陸と陸続きでした。対馬海流は流れ込めないので、日本海は冷たい湖のような海でした。そうすると、いくら風が吹いても、日本列島には雪が降らないですね。
で、氷期の日本列島は気温も低かったけど、雨も雪も少ない、乾燥した気候だったんです。ちょうど今の西日本がウラジオストックみたいな気候だっただろうと言われています。これは花粉分析なんかで植生を調べている人たちも、その裏付けをしています。(つづく)
いがりまさしさんのお話・後編です。
キスミレが降水量の多い日本の里山的環境に生息していること、ですが、そのルーツは大陸沿海州の降水量が少ないエリアであるのはなぜか? じつは1万年前は日本の気候は今よりずっと寒冷・乾燥していて、まさに今の大陸沿海州の気候と同じだったという、まるでミステリーの謎解きのような話の続編です。1万年前から気候は温暖化し、今のような気候になったわけですが、そうなってもキスミレが生き残ったのはなぜか? いよいよ、キスミレ最後の謎が解きあかされます。
なお、お話したのはいがりさんですが、それを文章にしているのは植原です。したがって文責は植原にあります。
◆キスミレと火山の噴火
さて、温暖湿潤になった日本列島になぜキスミレが残ったのか? 阿蘇のキスミレは山焼きをやめたら、なくなってしまうと言いましたが、それがなぜ今まで残ってきたのか?
これは火山の話です。地図を出して、九州・鹿児島の桜島の北側の海(湾)をみると、丸く輪になっているのがわかります。じつは、ここは昔、巨大火山の火口(カルデラ)でした。名前を姶良(あいら)カルデラといいます。
この姶良カルデラが今から2.5万年くらい前に、人類が体験したことのない規模の噴火を起こしました。このときの火山灰が積もった地層が日本中で出てきます。姶良層といいます。姶良層が出れば、そこが2.5万年前であることがわかります。とても重要な地質学上の指標になっています。このへんでも20センチくらい積もったでしょうか。これによって、西日本の植生は一時リセットされたと言われています。とはいえ、一度リセットされても5千年くらいで元に戻るらしいですね。
その後、喜界カルデラも噴火しました(鹿児島の南に突き出た2つの半島の南、種子島の西、屋久島の北くらいの海上です。隣接して硫黄島や竹島があります。地図で確かめてみてください)。6千年ちょっと前くらいです。皆さんはまだ生まれていませんが、植物の歴史でいうと、つい最近の出来事です。5千年で噴火の影響がなくなるとしたら、まだなくなって千年しかたっていません。このとき、もう縄文時代は始まっていました。九州の縄文文化はこのとき、一時壊滅したのではないかと言われています。皆さんは学校で「縄文時代は3千年前から」と習ったと思いますが、今は違います。最新の研究成果を取り入れて、今は「縄文時代は1万2千年前から」となっています。
最終氷期のころ、キスミレはこのころ最も栄えたんでしょうね、西日本は今の沿海州と同じように、寒くて雨も雪も降らなかったですね。だいたい今から1万年前に最終氷期が終わりました。そして、キスミレは衰退していくのですが、そのときに喜界カルデラの噴火が起こったんですね。それで、西日本の植生が相当広く破壊されたのですが、それが草原性のキスミレにとってはありがたかったようです。
◆キスミレと縄文人
ただし、この噴火も6千4百年前ですから、5千年で元に戻るとすると、今頃なくなっていても不思議じゃないですよね。キスミレは衰退はしたけれど、なんとか今まで残ってきたのは、縄文人が活動を始めたからです。
阿蘇の山焼きはいつ始まったか分からないそうです。少なくとも7百年前には行われていた。ボーリング調査によると、6千年前から頻繁に火災が起こっていたことがわかりました。それ、縄文人がやっていたかどうかはわかりませんが、とにかくだいぶ昔から、山焼きが起こっていました。縄文時代が始まったということは、土器を使っていますから、狩猟採集だとしても、集落を作り始めています。集落ができれば、その周りの森林を定期的に伐採していたはずです。そのときに、日本の里山の原型ができ始めただろうと思われます。喜界カルデラの噴火後、日本列島の自然が森林に戻りつつあり、キスミレが行き場を失いそうだったのですが、そのキスミレが逃げ込んだのが、縄文人の作った里山だったということです。
愛知県のキスミレの自生地は里山ばかりです。キスミレというスミレは縄文時代から脈々と続いてきた里山文化に支えられて残ってきたのではないかと思います。
乙女高原もスキー場になる前は茅場だったそうですね。日本の草原というのはほとんど茅場です。阿蘇もそうです。霧ヶ峰の踊り場湿原なんかも、茅場だったからスキー場になれたんですね。最初は里山だったんです。そんな里山の文化が、今日はキスミレのお話でしたが、キスミレだけじゃなくて、大陸系の植物を育んできたわけで、草原はとても大事な場所なんです。もし、日本列島に人間がいなかったら、つまり、人による里山がなかったら、日本の植物の2~3割はなかっただろうと思います。
◆世界のスミレ
南米パタゴニアのスミレです。南緯40度、標高2000m。大雪山を南米に持っていったようなところです。
ギリシャのクレタ島のスミレです。こういうのをみると、パンジーとスミレの境は確かにないなという気がします。相当大きく見えますが、タチツボスミレより小さく、ツボスミレより大きいくらい。これは草ではなく、樹木です。クレタ島は地中海沿岸性の気候ですから降水量は相当少ないのですが、クレタ島でもさらに降水量が少ないところに生えています。石がガラガラしているところに生えています。
中国のスミレです。子どもがスミレをかごに入れて歩いていたので、見せてもらいました。地表とも地中ともいえないところにストロン(匍匐茎)があって、そこに鈴なりに実が付いているのです。スミレの閉鎖花ですね。日本に帰ってから中国植物誌を調べたんですが、こういう形状のミスレは載っていませんでした。ただ、よくみると、これに似たスミレの絵はありました。そのときは分からなかったです。
翌年、また行きました。この子、じつはお姉ちゃんと二人でスミレを持って歩いていたんです。聞いてみたら、お父さんに頼まれて、薬にするために採っていたといいます。筆談で話をしました。住所も書いてもらったんですが、そしたら「工生所」とありました。中国語で診療所のことです。彼らのお父さんはお医者さんなんですね。診療所で使う薬を作るために、子どもにこのスミレを採りに行かせたということだったんです。
翌年、そのお父さんに案内してもらいました。そしたら、スミレの花が咲いていました。最初、ニョイスミレかと思いました。よく見たら、違うんですね。地面を掘ってみたら、閉鎖花が地中にありまして、さらに掘ってみると、おもしろいことにユリ根みたいな鱗茎が出てきました。これが発見できたので、名前にたどりつけました。よくみると,その絵には閉鎖花も書いてありました。ただし、ただの点でした。花があっても乾燥標本にしちゃうと、何がなんだかわからなくなってしまって、とりあえず書いておけという感じだったと思います。本文には閉鎖花のことは書いてありません。まだ生態が明らかになっていないスミレかと思われます。
名前はわかったんですが,このスミレが生えているところというのは、標高がとても高くて、3000~3500mなんですが、どちらかというと里山なんです。中国のこのあたりの里山って、ウシやヤギが放牧されているんです。考えてみれば、この鱗茎があれば、地上部を食われてしまっても、怖くないですよね。しかも、閉鎖花もあります。ウシやヤギの放牧がいつから始まったかわかりませんが、ここにこのスミレがある、または、ここにこの形態のスミレが残ったというほうが正しいのかもしれませんが、放牧と大きな関係があるんではないかと思いました。
日本にキスミレが残っていることも、中国にこのスミレが残っていることも、皆さんが乙女高原で直面している植生の遷移の問題やシカの問題も、我々が自然のことを考えるのに、とても示唆深いものではないかと思います。
お話はここまでです。
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・・・そう話し終えると、いがりさんはおもむろにギターのチューニングを始め、生演奏をバックに日本のスミレを紹介するスライドショーが始まりました。皆さん、とてもうっとりと、リラックスしながら、美しい音色を聴きながら、美しい画面に見入っていました。とても贅沢な時間でした。
いがりさんの音楽に乗って、いがりさんの植物写真のスライドショーを見ることができるサイトがあります。無料です。お勧めですよ。
「いがりまさし公式サイト 植物図鑑 撮れたてドットコム」 http://www.plantsindex.com/
その後、会場からの質問にいがりさんが答えるQandAのコーナーがあり、マイクを総合司会の商工観光課の網野さんにお渡ししました。宮原ファンクラブ代表世話人のお礼のあいさつ後、内藤ファンクラブ世話人からの諸連絡があり、フォーラムを無事終了しました。
終了後、いがりさんや高槻さんの本にサインをもらう人の長い列ができました。
片付け終了後、控室で参加自由の茶話会をしました。28人もの方が参加してくださいました。遠くは長野県の塩尻市や松本市、東京都から大勢、埼玉県さいたま市、神奈川県の小田原市の方もいてびっくり(参加者名簿を見ると、ほかにも神奈川県南足柄市、静岡県静岡市、千葉県千葉市から参加された方もいました)。三枝さん手作りの干し柿がとてもおいしかったです。情報交換のきっかけになるよう、全員に簡単な自己紹介をしていただいたのですが、いやー、世の中いろいろな人がいておもしろいなあと、改めて思いました。
さて、いつもの年だとこれで解散なのですが、今年は初めての試みとして懇親会もセットしました。電車で帰りやすいように、駅前の飲み屋さんで行いました。10人ほどが集まり、大盛り上がり。いろんな話ができました。来年もぜひやりましょうね!!
来年のフォーラム準備や運営に活かしたいと思います。ご感想やご意見をぜひお届けください。よろしくお願いします。