著者の判然としない聖書は信頼するに足りないかというと、
決してそうではない。
聖書は聖書そのもののために貴いのであって、その著者のために
貴いのではない。
真理そのもの自身の証明者であるから、自身を人に紹介する時に
人の証明を必要としない。何もモーセの言(ことば)であるから
といって貴いのではない、神の真理であることによって貴いのである。
私たちはダ . . . 本文を読む
goo blog お知らせ
最新記事
カテゴリー
- Weblog(6)
- 詩;少女ジーザスのうた(1818)
- 少女ジーザスの言の葉ランド(2753)