パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人
たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに
言った。
「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事をするのか」。
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人に医者は
いらない。いるのは病人である。
わたしが来たのは、義人を招くためではなく、
罪人を招くためである」。
(マルコによる福音書第2章16~17節 )
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主イエスは何も人の弱みにつけこんで、人に対して伝道活動をするために、殊更に罪人と共に食事をしたわけではない。
主の伝道活動は、というより、人間への接し方は、「愛の行為」であるからである。
主イエスは二千年前の当時もそして今も、「人を愛するためにこそ人に接してくださる」。
自分は罪人であるという自覚を持つこと自体、もう主の御力がその人に働きかけた証拠(結果)である。
誰も全く健康なら医者を必要とはしない。同じように自分に全く罪がない、苦しみも、悩みもないという人がもしいるなら、その人は神を求めたりはしないだろう。
思索することも、勉強することも、読書することも、物や絵画を描いたり、何かを創作したりもしないだろう。
わたしたちフツーのクリスチャンにとってはそれらのことはすべて神への祈りなのだ。
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