
それはトマスの言い方に従うならば、
創造という現実に直面し、それについて
適切に考察し、理解するためには、それを
あたかもこの世界における一つの変化である
かのように宇宙論的な観点から考察するのでなく、
われわれ自身の「究極的関心」の問題として、
端的に言えばわれわれの「救い」にかかわる
問題として、考察しなければならない、
ということである。
(トマス・アクィナス『神学大全』稲垣良助著
講談社選書メチエ )
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このフツーのクリスチャンのわたしを創造なさった御方はこのフツーのクリスチャンのわたしをしげしげと関心をもってながめておられないだろうか?
大芸術家がご自分の作品を造った後「出来栄え」をたしかめ、ここのところはもっとこの色を使えばよかったな、などと考えるように。
そしてご自分の作品に満足しておられるのだ。
それは上記引用の一節が言っているように、このフツーのクリスチャンのわたしたちにとって「救い」ではないだろうか?
主はご自分の作品を愛しておられるのだから。
大芸術家が自分の作品を「自分のいのち」と思っているのと同じである。
この意味で「創造された」ということは「救われている」と同じである。
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創造という現実に直面し、それについて
適切に考察し、理解するためには、それを
あたかもこの世界における一つの変化である
かのように宇宙論的な観点から考察するのでなく、
われわれ自身の「究極的関心」の問題として、
端的に言えばわれわれの「救い」にかかわる
問題として、考察しなければならない、
ということである。
(トマス・アクィナス『神学大全』稲垣良助著
講談社選書メチエ )
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このフツーのクリスチャンのわたしを創造なさった御方はこのフツーのクリスチャンのわたしをしげしげと関心をもってながめておられないだろうか?
大芸術家がご自分の作品を造った後「出来栄え」をたしかめ、ここのところはもっとこの色を使えばよかったな、などと考えるように。
そしてご自分の作品に満足しておられるのだ。
それは上記引用の一節が言っているように、このフツーのクリスチャンのわたしたちにとって「救い」ではないだろうか?
主はご自分の作品を愛しておられるのだから。
大芸術家が自分の作品を「自分のいのち」と思っているのと同じである。
この意味で「創造された」ということは「救われている」と同じである。
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