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トマスによると、人間はその意志によって自らの行為の主であり、
支配者なのであるが、(究極)目的あるいは幸福の欲求の場合は、
人間はもはやそれの主、支配者ではないのである―つまり、人間は
たしかにその意志によって(究極)目的・幸福を欲求するのであるが、
究極目的そのものを意志することは自由な選択に属するのではなく、
その意味で意志は自由ではない、ということである。
(トマス・アクィナス『神学大全』稲垣良典著 講談社選書メチエ)
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フツーのクリスチャンにとって人生の究極目的は「主の主王の王主イエス・キリストご自身と似た者にしていただくこと」である。この意味で上記引用の文でトマスが言うようにフツーのクリスチャンに与えられているいわゆる「自由意志」は「主の御手の内にある自由意志」つまり主ご自身がいろいろと面倒を見て下さる「自由意志」である。
その意味で上記引用文の言っていることはフツーのクリスチャンであれば「絶対に正しい」「主イエス・キリストの愛と正義と自由」だということがわかるはずである。
全くの自由とされている「自分の自由意志」まで主の主王の王主イエス・キリストの手入れがあるなんてそんなの「自由とは言えないじゃないか」という大音響が聞えてくる。しかし「親が幼い子供の面倒を見る」ということは以上のようなことではないだろうか?
少なくともフツーのクリスチャンにとって主は自分たちを創造してくださったのだからいわば「親」のような存在である。わたしたち人間は主の立場からみたら幼ない子供のようなものである。
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支配者なのであるが、(究極)目的あるいは幸福の欲求の場合は、
人間はもはやそれの主、支配者ではないのである―つまり、人間は
たしかにその意志によって(究極)目的・幸福を欲求するのであるが、
究極目的そのものを意志することは自由な選択に属するのではなく、
その意味で意志は自由ではない、ということである。
(トマス・アクィナス『神学大全』稲垣良典著 講談社選書メチエ)
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フツーのクリスチャンにとって人生の究極目的は「主の主王の王主イエス・キリストご自身と似た者にしていただくこと」である。この意味で上記引用の文でトマスが言うようにフツーのクリスチャンに与えられているいわゆる「自由意志」は「主の御手の内にある自由意志」つまり主ご自身がいろいろと面倒を見て下さる「自由意志」である。
その意味で上記引用文の言っていることはフツーのクリスチャンであれば「絶対に正しい」「主イエス・キリストの愛と正義と自由」だということがわかるはずである。
全くの自由とされている「自分の自由意志」まで主の主王の王主イエス・キリストの手入れがあるなんてそんなの「自由とは言えないじゃないか」という大音響が聞えてくる。しかし「親が幼い子供の面倒を見る」ということは以上のようなことではないだろうか?
少なくともフツーのクリスチャンにとって主は自分たちを創造してくださったのだからいわば「親」のような存在である。わたしたち人間は主の立場からみたら幼ない子供のようなものである。
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