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みんな「苦しい」とか「痛い」とかではなく、
「渇き」ばかりを訴えて息絶えていきました。
そんな肉体ばかりではなく、心も体も、いや全身が
渇ききっていたのだと思います。
今、わたしにはこの人たちの姿が、十字架上でわたしたち
のために死んでくださったキリストの姿とダブって見える
ことがあります。
(「原子野からの旅立ち」 女子パウロ会 )
1945年8月6日広島、1945年8月9日長崎と日本国に原子爆弾が落とされました。
上記引用文の一節にあるように被爆した人々は激しい「渇き」に襲われた。
われらの主が十字架上で「われ渇く」とおっしゃったこととなんと酷似していることだろう。被爆した人々はみんな主と共に「われ渇く」と言って死んでいったのである。
広島にも長崎にも犠牲者の記念碑がある。「安らかに眠ってください。過ちはもう二度と繰り返しませんから」と刻まれている。そして毎年犠牲者の冥福をいのり、この地球上に二度とこんな過ちを犯さないために記念式典が行なわれる。わたしたち人類はこんな過ちは繰り返してはならない。「ああ、今年も記念式典か」だけで済ませては断じてならないのである。こんな単なるイベントではないのである。わたしは取るに足らない浅学非才のクリスチャンとして全人類に警告するものである。
(二度と繰り返さない筈なのに、何故再び放射線をフリマク原子力発電所の事故が起きたのか。
あの人たちの死は一体何だったのか。彼らは言うだろう。
「我らは、渇く、真の平和に」と。)
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