
痛みをも忘れてひたすらなる愛において
相手を包むときこそ、赦しは赦しとしての
真義を発揮したのであり、痛みは真実の
ものたることを証明したのである。
(「神の痛みの神学」北森嘉蔵著 教文館 )
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北森氏の言っている「痛み」とは「神の痛み」であり、「神の痛み」とは神そのもの、愛することそのもののことだ。
フツーのクリスチャンのわたしは、「神の愛」で相手を包むことなど人間にはできないと主への信仰を与えられるまで、ずっとそのように思って生きていた。
上記に引用した北森氏の言葉にぶち当たった時、主の御声が聴こえた。耳にではない。わたしの魂の奥底で聴こえたのだ。
主はわたしに「あなたを愛するためなら何もわたしにとって痛くはないよ。十字架だってわたしは痛くなかったんだよ」と。
私は号泣した。主の愛を全身全霊で信じたのではなく感じたのだ。
この「愛」で家族を愛するために今日もいのる。そして隣人を愛するために。
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↓:♥。痛。✝。
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相手を包むときこそ、赦しは赦しとしての
真義を発揮したのであり、痛みは真実の
ものたることを証明したのである。
(「神の痛みの神学」北森嘉蔵著 教文館 )
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北森氏の言っている「痛み」とは「神の痛み」であり、「神の痛み」とは神そのもの、愛することそのもののことだ。
フツーのクリスチャンのわたしは、「神の愛」で相手を包むことなど人間にはできないと主への信仰を与えられるまで、ずっとそのように思って生きていた。
上記に引用した北森氏の言葉にぶち当たった時、主の御声が聴こえた。耳にではない。わたしの魂の奥底で聴こえたのだ。
主はわたしに「あなたを愛するためなら何もわたしにとって痛くはないよ。十字架だってわたしは痛くなかったんだよ」と。
私は号泣した。主の愛を全身全霊で信じたのではなく感じたのだ。
この「愛」で家族を愛するために今日もいのる。そして隣人を愛するために。
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