ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

人間を真に自由にするものとは。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

2020年07月10日 00時01分31秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
    「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、
     あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
     また真理を知るであろう。そして真理は、
     あなたがたに自由を得させるであろう」。

       「ヨハネによる福音書 第8章 31節」


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 わたしは「人間」として何より「自由」を欲する。
 特に「学問の自由」、「「信教の自由」「職業選択の自由」「婚姻の自由」etc.を欲する。
 こう書くとクリスチャンっていうのは随分と「不自由な思い」をしてきた人が多いのかなと思われてしまいそうだ。今更、そんな自由について語るのは時代錯誤だと笑われるかもしれない。
 しかし、信仰をもつことは時に暗黙の自由の規制を受けることはある。ことに大多数の他者と異質な(あるいは異質だというレッテルを貼られた)場合は、その規制と偏見は顕著になる。
 わたしの所属している主イエス・キリストの教会では、主イエス・キリストの信仰のほかに別段何も「これをしてはいけない、あれをしてはいけない」というイワユル「掟」のようなものはない。そもそも主イエス・キリストのみ言葉は上記の聖書の言葉にあるように真に「人間を自由にする」のである。
 人間の自由を疎外するのは「人間を差別するあらゆる差別思想」だと思う。
 
 わたしは父親がいないという家庭に育った。
 生みの親のおなかの中にいたときから「二号さんの子」というレッテルを貼られて偏見の矢面に立たされた。そのわたしが主イエス・キリストの洗礼を受けるようになると家族や親せきまでが「変な奴」という新たなラベルをクッツケテくれた。

 自分にはどうにも選択しようのない出自によって差別を受けるのはどうしてだろう?わたしはずっと問いかけ続けてきた。これからもこの問いかけは終わることはないだろう。
 今、わたしは主イエス・キリストの愛ゆえに癒されつつある。
 そして主イエス・キリストの愛に感謝している。それゆえに周囲の偏見をも許そうと祈り続けている。
 教会内にも偏見はある。
 しかし、このことも主イエス・キリストの愛はわたしたちへの「相互愛」というみ言葉によって克服して頂けると信じている。



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