ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

羊の門。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

2020年07月11日 00時05分11秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
    わたしは羊の門である。
    わたしよりも前に来た人は、
    みな盗人であり、強盗である。
    羊は彼らに聞き従わなかった。
    わたしは門である。
    わたしを通って入るものは救われ、
    また出入りし、牧草にありつくであろう。

     「ヨハネによる福音書 第10章 7節」





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 みなさんは「不用犬不用猫ボックス」というの変なものの存在を知っているだろうか。この日本にこのヘンテコなボックスが存在する。
 これはどのようなボックスかといえば、「不用な(いらなくなった)」命を「ごみのように捨てる」のを認める、公然と認めるボックスなのだ。
 こんなボックスの存在を「ああ、それはいい」、「あってよかった」と心底思えるだろうか?
 この全宇宙に「不用な(いらない)」いのちなどないのだと、わたしの主イエス・キリストは怒りを通り越し、また悲しみを通り越して、ただ呆れていらっしゃる。
 2千年前、主イエス・キリストは当時のイスラエル王国の半農半牧の庶民の生活の中のあらゆる命をたとえ話に使った。羊はご自分の「命」のシンボルとして使われた。そしてもうひとつのシンボルとしての意味は俗にいう「迷える子羊」としての「人間」だ。わたしたちは皆、迷える子羊だ。でも、主イエス・キリストはそのわたしたちを大切に養い守ってくださっている。
 わたしたちは生き物を殺して食べているが、それらは主イエス・キリストから与えられたものとしての食物である。その食する命もやはり尊いものなのだ。だからわたしたちは感謝して、祈りのうちに頂いたものを口にする。

 人間の都合で、要らなくなったり、捨てたりできる「命」など存在するはずもない。主イエス・キリストがわたしたちを愛し、「ご大切」にしてくださったように、わたしたちもともに愛し合い、あらゆる命を「大切にする(愛する)」ことを学ばなければならないと思うのだ。

 わたしたちは主イエス・キリストの「命」で生かされている「迷える子羊」なのだから。


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    ↓:迷える。
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