まことに、人は信仰によってのみ義とされるのである。
儀式によるのではない、血肉によるのではない、
位によるのではない、学識によるのではない、
行ないによるのではない、ただ十字架の辱めを受けた
ナザレのイエスを信じることによるのみである。
これは迷信のように聞こえるが真理中の真理である。
人の経験中の最も確実なものである。
私がこの福音を信じるのは聖書がこう言うからではなくて、
私の全性がこれに応答するからである。
私の経験がこれを証明するからである。
歴史がこれを確かめるからである。
自然がこれを教えるからである。
まさに信仰!
信仰によらずに人の救われるべき道はない。
(「一日一生」内村鑑三著 教文館 )
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神に依り頼むことは、いわゆる弱いどうしようもない人間のどうしよもないしわざでしかないのだろうか?
たしかにその通りである。
人間は精神的にも肉体的にも「弱い」存在である。
だからフツーのクリスチャンのわたしたちに言わせれば、まことに「弱い」ことは「神の恵み」である。
上記引用の内村氏も言っているように「私の全性がこれに応答するからである。」これは自分の「弱さ」あるいは「罪深さ」を主の御心によってハッキリと自覚させられた者の偽りのない姿である。
「フツーの人間」はただ頭を垂れて主の御前に「主よ、罪深いわたしをお助けください」と嘆いて主にしがみ付くのが自然なことである。人間の自然な姿である。
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