貧しい人の足を洗おうと心から思うなら、かれらを
あなたがたの家に連れて行き、食事を与え、服を着せると
いったことを一年間続けてみるといいのです。
(「イースター・ブック」マルティン・ルター R・ベイントン編
中村妙子訳 新教出版社 )
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上記引用文と関連することだが、わたしは昔、洗礼を受けたてのころ、知人たちからこんな実話(とわたしは思う)を聞いたことがある。
ある司祭がある貧しい婦人の相談にのってあげているうち、自分は司祭としてこの婦人と結婚しなければ、この婦人をキリストのものにすることはできない、つまりこの婦人は救われないと真剣に決心し、彼女と結婚したという話である。
フツーのクリスチャンのわたしはこの司祭は「よきサマリヤ人となった」と思って感動した。そしてこの婦人は「キリストの妻」となったのだと思って感動した。
ある人間に対して司祭としてあるいは一キリスト教徒として「責任をもつ」とは以上のようなことではないだろか?
ちょうど「よきサマリヤ人」のように徹底してひとりの傷ついた人に責任をもったように。
ちなみに「ある貧しい婦人」とは実はこのフツーのクリスチャンのわたし自身のことでもある。
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