わたしを失う者は自分の命をそこなう、
すべてわたしを憎む者は死を愛する者である。
(箴言 第8章第36節 )
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
上記の聖句はフツーのクリスチャンにとって、まことに自然なことを言っている。
主イエス・キリストは「命の根源」「命の与え主」である。だからフツーのクリスチャンにとって主イエス・キリストを失うことはそのまま生命を失うことである。
「すべてわたしを憎む者は死を愛する者であるという一節は主イエス・キリストを憎む者、つまり「命そのものを憎む者」は「人殺しだ」と言っているのである。自分を殺すものなのである。
「死を愛する者」とは「人殺しを愛する者」である。「人殺しそのものを愛する者」である。
わたしたちフツーのクリスチャンの信仰の立場では主イエス・キリストを見失ったら「人殺しそのものを愛する者」にまで人間は落ちて行く存在なのだ。そのような人間理解である。
平たく言えば、神を見失ったら人間は人間を殺すことを楽しむところまで行ってしまうという人間理解である。
ある外国映画で、ある国の兵士が戦闘機に乗って敵国の上空を飛びながらつぶやいた言葉がわたしの胸をうったのを覚えている。彼はこう言ったのだ。
「神のいない国で、絶対に死にたくない」と。
つまり彼はおそらく「無神論」の国の上空にいたのだ。それくらい、言わば人殺しを生業とする兵士ですら、主イエス・キリストの御前で「自分のような人殺しを救い給え」とフツーのクリスチャンとしてお祈りするのだ。兵士でさえ、命の根源に対するお祈りを忘れない。
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↓:アーメン。
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主イエス・キリストは「命の根源」「命の与え主」である。だからフツーのクリスチャンにとって主イエス・キリストを失うことはそのまま生命を失うことである。
「すべてわたしを憎む者は死を愛する者であるという一節は主イエス・キリストを憎む者、つまり「命そのものを憎む者」は「人殺しだ」と言っているのである。自分を殺すものなのである。
「死を愛する者」とは「人殺しを愛する者」である。「人殺しそのものを愛する者」である。
わたしたちフツーのクリスチャンの信仰の立場では主イエス・キリストを見失ったら「人殺しそのものを愛する者」にまで人間は落ちて行く存在なのだ。そのような人間理解である。
平たく言えば、神を見失ったら人間は人間を殺すことを楽しむところまで行ってしまうという人間理解である。
ある外国映画で、ある国の兵士が戦闘機に乗って敵国の上空を飛びながらつぶやいた言葉がわたしの胸をうったのを覚えている。彼はこう言ったのだ。
「神のいない国で、絶対に死にたくない」と。
つまり彼はおそらく「無神論」の国の上空にいたのだ。それくらい、言わば人殺しを生業とする兵士ですら、主イエス・キリストの御前で「自分のような人殺しを救い給え」とフツーのクリスチャンとしてお祈りするのだ。兵士でさえ、命の根源に対するお祈りを忘れない。
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