死後はどうなるだろうかなどと、あれこれ推測する必要はない。
人間に必要なのは、この世にあってわれわれが自分の理性と心で
知っている、われわれをつかわした神の意志にしたがって行動する
ように努力することである。
(「ことばの日めくり」トルストイ著 小沼文彦編訳 女子パウロ会 )
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上記引用文で主の主王の王主イエス・キリストが言わんとすることを、このフツーのクリスチャンのわたしが「実行」するために日常的に欠かさないようにしているのが、「朝晩のお祈り(主へのお祈り)」である。
わたしは以前にも書いたが、人間に出来る行為で主へのお祈りほど主の愛に人間を近づけるものはない。しかしハッキリしたお祈りの対象を持っていない人もいるかもしれない。
わたしもクリスチャンになる前はそうだったと言える。そして、いわゆる洗礼を受け正式(?)にクリスチャンにしていただいたあとも、主への確信に至り、主こそわが救い主という確固とした信仰をいただき「朝晩の主へのお祈り」がフツーの習慣となるまで何年もかかってしまった。それは結局「信仰の対象となる御方=お祈りの対象となる御方」をハッキリ「認識」していなかった、させていただけなかったからだと思う。
そこで「お祈り以前のお祈り」として「聖書」を読み、特に新約聖書の福音書を読み、主の主王の王主イエス・キリストとはどのような御方か、知らせていただくことを欠かさないよう努力してきた。
トルストイのように「死後はどうなるか」は現在のわたしにとってあまり重大事ではない。今、この時を主の復活のいのちに生かされることを、どのような小さなことをする時にも主に祈り求めている。
たとえば老いた母の部屋の窓を朝早く開けてあげるという小さなことから「主イエスさまなら、こうするにちがいない」という全身全霊の祈りをもってさせていただき、生かされている毎日である。
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↓:♥。禱。✝。
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知っている、われわれをつかわした神の意志にしたがって行動する
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上記引用文で主の主王の王主イエス・キリストが言わんとすることを、このフツーのクリスチャンのわたしが「実行」するために日常的に欠かさないようにしているのが、「朝晩のお祈り(主へのお祈り)」である。
わたしは以前にも書いたが、人間に出来る行為で主へのお祈りほど主の愛に人間を近づけるものはない。しかしハッキリしたお祈りの対象を持っていない人もいるかもしれない。
わたしもクリスチャンになる前はそうだったと言える。そして、いわゆる洗礼を受け正式(?)にクリスチャンにしていただいたあとも、主への確信に至り、主こそわが救い主という確固とした信仰をいただき「朝晩の主へのお祈り」がフツーの習慣となるまで何年もかかってしまった。それは結局「信仰の対象となる御方=お祈りの対象となる御方」をハッキリ「認識」していなかった、させていただけなかったからだと思う。
そこで「お祈り以前のお祈り」として「聖書」を読み、特に新約聖書の福音書を読み、主の主王の王主イエス・キリストとはどのような御方か、知らせていただくことを欠かさないよう努力してきた。
トルストイのように「死後はどうなるか」は現在のわたしにとってあまり重大事ではない。今、この時を主の復活のいのちに生かされることを、どのような小さなことをする時にも主に祈り求めている。
たとえば老いた母の部屋の窓を朝早く開けてあげるという小さなことから「主イエスさまなら、こうするにちがいない」という全身全霊の祈りをもってさせていただき、生かされている毎日である。
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