それは、祭司長たちがイエスを引き渡したのは、
ねたみのためであることがピラトにはわかっていたからである。
(マルコによる福音書第15章 10節 )
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ピラトなる人物は当時イスラエルを支配していたローマの総督で、主イエスに直接死刑を言いわたした者である。なんという罪に倍する罪であることか。
当時のイスラエルの宗教指導者たちが主イエスをことあるごとく議論というより、つまらない文句を言って民衆から引き離そうとしていたのは宗教指導者の主イエスに対するねたみの気持ちである。
「こんな学問を正式にやったこともないどこの馬の骨ともわからないようなヤツが生意気にも民衆を教えている。そして民衆はみんなヤツについていく。敬うべきは正式に司祭の権限をもつ自分たちなのに。あるいは学問を積んだパリサイや律法学者なのに」というねたみの気持ち、ねたみの心が主イエスを殺した。
正式に学問をおさめ司祭の資格を持つ者よりいわゆる人気があって、その教えやいやしのわざに惹かれて民衆がこぞってついて行ってしまうという現象はいつの時代にも起こる。ただわれらの主イエス・キリストのようにいわば「本物」は救いを与えてくださり、復活のいのちに生かしてくださる。これは天にも地にも主イエス・キリストご自身しかおられない。このことこそわたしたちの信仰である。
主イエス・キリストの御名を利用して「○○司祭様」などと言われることに快楽と満足を覚えて人気を取る司祭は、自身の中の悪しき誘惑に注意を怠らないことを願うものである。
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