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霊魂と肉体にて一つの人なるごとく
神と人にて一つのキリストなり
(アタナシオ信条 )
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
「人となった神」と言われるわたしたちフツーのクリスチャンの信仰の対象、主イエス・キリストのことを表現した「お祈り」の一節だ。
この一節を唱えると「ああ主は神に対して人はどのように礼拝したら良いのかを御自ら人に示そうとして、人性をとり、人間となってくださったのだ」と感謝してやまないし、感謝しても感謝しきれない気持ちになる。
そして主の主王の王主イエス・キリストをわたしの救い主として讃美しても讃美しきれるものではないという、心が与えられる。主は人間の頭の中で創りだされた神々の一人ではないのだ。「人間になってくださった神」である。これは神の方から人間に近づいてくださりたいあまり人性をとり人間となってわたしたちの間に住んでくださり、人間としてのすべての条件をいわば神ご自身の上に着てくださった。
こうして見ると主は母の胎の中にいた時からもう十字架を背負ってくださっていたということがわかる。天の父なる神さまはこの御方のことを「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3・17)とおっしゃっている。
主イエス・キリストにとって上記に引用したお祈りの一節に「霊魂と肉体にて一つの人となるごとく、神と人にて一つのキリストなり」とあるように人性をとってくださったことはその無限大の愛ゆえにごく自然なことだったのだ。
まるで「あなたのためなら十字架なんて少しも痛くないのだよ」とおっしゃりたいかのように。
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(アタナシオ信条 )
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「人となった神」と言われるわたしたちフツーのクリスチャンの信仰の対象、主イエス・キリストのことを表現した「お祈り」の一節だ。
この一節を唱えると「ああ主は神に対して人はどのように礼拝したら良いのかを御自ら人に示そうとして、人性をとり、人間となってくださったのだ」と感謝してやまないし、感謝しても感謝しきれない気持ちになる。
そして主の主王の王主イエス・キリストをわたしの救い主として讃美しても讃美しきれるものではないという、心が与えられる。主は人間の頭の中で創りだされた神々の一人ではないのだ。「人間になってくださった神」である。これは神の方から人間に近づいてくださりたいあまり人性をとり人間となってわたしたちの間に住んでくださり、人間としてのすべての条件をいわば神ご自身の上に着てくださった。
こうして見ると主は母の胎の中にいた時からもう十字架を背負ってくださっていたということがわかる。天の父なる神さまはこの御方のことを「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3・17)とおっしゃっている。
主イエス・キリストにとって上記に引用したお祈りの一節に「霊魂と肉体にて一つの人となるごとく、神と人にて一つのキリストなり」とあるように人性をとってくださったことはその無限大の愛ゆえにごく自然なことだったのだ。
まるで「あなたのためなら十字架なんて少しも痛くないのだよ」とおっしゃりたいかのように。
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