見よ、キリストはあらゆる律法に対して『否』と言うことが
おできになる。そういう権威をおもちになる。
なぜなら、罪からまったく自由であり、純潔な方であるからだ。
そしてキリストは、ご自身の『否』を私に下さった。
それゆえ、私は罪人で、律法の前に立つことができず、招くばかりで
自分自身を見るときには『しかり』と言わざるをえないけれども、
それでもなお、キリストの義が私の義であって、それゆえに、罪から
自由にされていると言うことができる。
(「マルティン・ルター日々のみことば」鍋谷堯爾篇訳 いのちのことば社 )
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わたしたち主にある者つまりクリスチャンは疾走している主ご自身
という唯一頭の馬の尾の毛の先に必死にしがみついている一匹のダニに
すぎないような者たちである。
われらは主の十字架の死とそこからの復活を魂の奥底から必死になって
信じることでかろうじてやった「義」とされているあわれなダニに過ぎない。
(ダニよ、赦したまえ、主イエス・キリストの御名によって。アーメン)。
かろうじてやっと「義認」していただいているということは、かろうじてやっと
「生命体」(心と魂と肉体をもつもの)として主の御前に生かされているのである。
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