「神がわれわれにされたこのことは何事だろう」
(創世記 第42章 第28節 )
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上記の言葉は、フツーのクリスチャンなら誰でも常に頭の中に存在するものだ。
何か事が起こった時、それが自分にとって良いことであれ、悪いことであれ、主イエス・キリストが「ほら、わたしがあなたに起こしたことの意味を考えてごらん」とやさしく、み言葉の深い意味に導いてくれる。
わたしのような信仰の薄い者はしょっちゅう上記のみ言葉をいただくのに、上手く考えることができずに精神的に落ちついていられたためしがない。まことにわれながら情けないと反省ばかりしている。
しかし、どのようなことが起こり、どのような状態になっても主イエス・キリストの暖かく優しい言葉がいただける。
このことはフツーのクリスチャンのわたしにとって、わたしを存在させるいのちの源となる主イエス・キリストの御力以外のなにものでもない。この主イエス・キリストの御力を愛と言ってもいいと思う。
クリスチャンによくありがちな「犠牲的精神こそ愛」という考え方も、それは主イエス・キリストの愛といえるが、それだけが愛ではない。このブログでも何度も書かせていただいたが「愛とは理解し理解されること」だ。主イエス・キリストはオッカナイ神でもなく、オニでもない。ただひたすら「弱い弱い心と体を持った人間を包む愛そのもの」だ。
何をやってもなんだか上手くいかない人、病気で苦しんでいる人、心身に障ガイを負った人などをそれこそ「完全に理解する」。「全智全能の神」とは「全智全能の理解」だ。
わたしはわたしの所属している主イエス・キリストの教会のお祈りを朝晩唱えているが、主イエス・キリストというわたしの神を「ただひとつの愛なり、主イエス・キリストの愛なり」と賛美している。
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↓:キリストの愛。
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