さて、主イエスは御霊(みたま)によって
荒野に導かれた。
「マタイによる福音書 第4章 1節」
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御霊とは主イエス・キリストの霊のことだ。主イエス・キリストご自身の魂のことである。また、主イエス・キリストの意思のことでもある。
そのご自分の意思で荒野に行ったのだ。
「荒野」とは「この世」のこと。
十字架のイメージが強いためか、主イエス・キリストには苦しみのイメージがつきまとう。しかし、主イエス・キリストは決して苦しみでけの方ではない。
主イエス・キリストはクリスマスに生まれた。では何のために生まれたのだろうか。それはわたしたち人間を救うためである。
救い?
救いって何だろう。
わたしは聖書を読んでも、教会に行っても、「救い」というものを自分のkととして感じることが出来ない時期があった。自分の問題として感じることが出来るようになったのは、わたしが病気になってからである。
クリスチャンは「病気」も「救いへの道」と感じることが出来る者だ。
うっそうー。やだあー。それなにぃー。
そんな絶叫が聞こえてきそうだ。
苦しい時の神頼みと言われるが、苦しい時に主イエス・キリストの救いの必要性を痛感するわけだ。
わたしは病気が治ったわけではない。病気そのものは治っていないが、それでも尚、「癒されている」、「救われている」と感じることが出来る。
そして、このようなヘタクソ文章を書いている時も、主イエス・キリストの「愛」を全身全霊で感じているのである。
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荒野に導かれた。
「マタイによる福音書 第4章 1節」
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御霊とは主イエス・キリストの霊のことだ。主イエス・キリストご自身の魂のことである。また、主イエス・キリストの意思のことでもある。
そのご自分の意思で荒野に行ったのだ。
「荒野」とは「この世」のこと。
十字架のイメージが強いためか、主イエス・キリストには苦しみのイメージがつきまとう。しかし、主イエス・キリストは決して苦しみでけの方ではない。
主イエス・キリストはクリスマスに生まれた。では何のために生まれたのだろうか。それはわたしたち人間を救うためである。
救い?
救いって何だろう。
わたしは聖書を読んでも、教会に行っても、「救い」というものを自分のkととして感じることが出来ない時期があった。自分の問題として感じることが出来るようになったのは、わたしが病気になってからである。
クリスチャンは「病気」も「救いへの道」と感じることが出来る者だ。
うっそうー。やだあー。それなにぃー。
そんな絶叫が聞こえてきそうだ。
苦しい時の神頼みと言われるが、苦しい時に主イエス・キリストの救いの必要性を痛感するわけだ。
わたしは病気が治ったわけではない。病気そのものは治っていないが、それでも尚、「癒されている」、「救われている」と感じることが出来る。
そして、このようなヘタクソ文章を書いている時も、主イエス・キリストの「愛」を全身全霊で感じているのである。
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