
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、
弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。
また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。
イエスはまた言われた、「これは多くの人のために流すわたしの契約の血である」。
(マルコによる福音書第14章10~26節 )
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わたしはフツーのクリスチャンとして、主よりいただいているわたしの衣食住のすべてを「主の聖餐」という信仰が与えられている。何も教会で正式に執り行われている宗教儀式の「聖餐式」「ミサ」だけが「主の聖餐」とは思えない。
まさに「すべてのものは主より出づ、わたしたちは主から受けて主にささげたのです」という「お祈りの言葉」のとおりである。わたしたちが食べているもの着ているもの、また住居は、主の創造ということを抜きにしては考えられないと思う。このことがしっかりと頭の中にあってこその宗教儀式としての「聖餐式」「ミサ」ではないだろうか?
わたしたちフツーのクリスチャンは主の十字架と復活の出来事であたらしく創造していただいた被造物をいただいて生かされているのだ。このことに魂の奥底から感謝をもつことができれば、ゆめゆめ食事となってくれる植物や動物を食物や衣以外の目的で、あるいはスポーツハンティングなどと称して「殺す」ことのみを目的とする行為は考えるだけでもぞっとする。これは罪である。「殺すなかれ」の戒めに違反している。
わたしたちは主に生かされているのである。いのちは主からのものだ。
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