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わたしが聖霊のきよめに生かされる。
それは、全キリスト教会が「まことの一つの信仰のうちに
支えられているとおり」であると語られています。
(加藤常昭説教全集28「十戒・ルターの小教理門答」教文館 )
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上記引用文の「聖霊のきよめ」とは具体的に何を指すのだろう。何を意味するのだろう。
わたしのような浅学非才の一クリスチャンの「体験」させていただいたことを例に言わせていただくと、まず、自分自身の良心が鋭くなるということがあげられる。
ごく単純に言わせていただくと、福音書の中で描かれている主イエス・キリストご自身がお与えになる良心の鋭さである。
この御方の御前に出るとまさにそうならざるを得ないというのがクリスチャンとしての実体験である。
何か正しからぬことをやってしまうとすぐに「良心の痛み」が与えられ「悔いの心」が与えられ、主ご自身に向かって「悔い改めのお祈り」が与えられるのである。
もちろんごくごく単純に「神さま、ごめんなさい」でも主はとてもおよろこびになる。
主イエス・キリストの御名によって。アーメン。
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