
聖書は「人をはっとさせ、ほっとさせる」書物であると
言った神学者がいます。
聖書はそれを読む人に、自分でも気付かない自分にはっと
気付かせるというのです。
神の言葉を鏡として、これにふさわしくない、罪の自分が
知らされるのです。しかしそれだけならまだ「キリスト以前」
です。罪の自分がわかっても、そこにはまだ救いも助けもない
状態です。ところが、この罪の自分を罪から救い出し、
助け出してくださるキリストの福音を聞く時、まさしく「ほっと」
させられます。キリストにすべてを委ねて、安心の思いに導かれます。
(「カトリックとプロテスタント」どこが同じで、どこが違うか
徳善義和・百瀬文晃・編 教文館 )
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
わたしはフツーのクリスチャンとして毎晩特に夜眠る前に「聖書」をなるべく読むようにし心がけている。
もちろん毎日かかさずというわけにはいかないが、夜読めなくても、朝のお祈りの直後だったり、夕方の晩御飯の支度の前だったり、日中ふとなんとなく一人きりになった時など、よく「聖書」を読んでいる。上記の引用文のとおりであることを証言させていただく。
主の主王の王主イエス・キリストが常にわたしと共にいて下さること、そしてわたしを守り、支え、強め、励まし、罪をおかしてばかりいるわたしに赦しを願う短いお祈りを与えてくださる。そんなときまさしく主はわたしの罪のために十字架にかかり身代わりとなってくださったこと、そしてわたしを復活のいのちに生かすために十字架の死より復活してくださったことにあらためて魂の奥底から感謝し、主の御名をほめたたえさせていただくのである。
だから、ほっと安心する。
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↓:♥。ha.✝。
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聖書はそれを読む人に、自分でも気付かない自分にはっと
気付かせるというのです。
神の言葉を鏡として、これにふさわしくない、罪の自分が
知らされるのです。しかしそれだけならまだ「キリスト以前」
です。罪の自分がわかっても、そこにはまだ救いも助けもない
状態です。ところが、この罪の自分を罪から救い出し、
助け出してくださるキリストの福音を聞く時、まさしく「ほっと」
させられます。キリストにすべてを委ねて、安心の思いに導かれます。
(「カトリックとプロテスタント」どこが同じで、どこが違うか
徳善義和・百瀬文晃・編 教文館 )
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わたしはフツーのクリスチャンとして毎晩特に夜眠る前に「聖書」をなるべく読むようにし心がけている。
もちろん毎日かかさずというわけにはいかないが、夜読めなくても、朝のお祈りの直後だったり、夕方の晩御飯の支度の前だったり、日中ふとなんとなく一人きりになった時など、よく「聖書」を読んでいる。上記の引用文のとおりであることを証言させていただく。
主の主王の王主イエス・キリストが常にわたしと共にいて下さること、そしてわたしを守り、支え、強め、励まし、罪をおかしてばかりいるわたしに赦しを願う短いお祈りを与えてくださる。そんなときまさしく主はわたしの罪のために十字架にかかり身代わりとなってくださったこと、そしてわたしを復活のいのちに生かすために十字架の死より復活してくださったことにあらためて魂の奥底から感謝し、主の御名をほめたたえさせていただくのである。
だから、ほっと安心する。
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