すると見よ。
十二年の間長血をわずらっている女が、
イエスのうしろに来て、その着物のふさに
さわった。
(マタイによる福音書 第9章 20節から21節 )
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上記引用聖句の女性は言語を絶する差別を受けていたことが察せられる。
女性の出血それも生理による出血、お産による出血がどれほど汚れたものと
されていたかレビ記を読めばわかる。
ここでわたしはなぜ生理とお産の出血がこれほどまで汚れたものとされていたのか、
わからない。
女性をこういうふうに創造なさったのは主なる神である。
それなのに生理とお産の出血がなぜ汚れているのか?
この場合の汚れとは即「神から遠いもの、神から見捨てられたものを意味する」。
だから主イエス・キリストを全き神全き人間とする正統的キリスト教信仰がいつでも
あやうい状態なのだと思う。
主イエス・キリストは人間となった神なのだから。
上記引用の女性はこの正統的信仰を持っていた。
彼こそキリストだとの確信があった。
そしてその確信は真実だった。
彼女は主イエス・キリストの着物のふさにさわるだけでいやされた。
十二年間も長血をわずらっていた身体もそして傷つきはてボロボロになっていた心も
いやされたのである。
主に栄光がありますように。
主イエス・キリストの御名によって。
アーメン。
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