
しかし、わたしはあなたがたといつも
一緒にいるわけではない。
(マルコによる福音書第14章7節 )
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上記の聖句で主の主王の王主イエス・キリストが何を言いたいか、分かるような気がする。
主は実はこう言いたいのだ。わたしに。
「あなたがたはわたしといつも一緒にいるわけではない」。
主はこのような悲痛な気持ちだったとわたしは思う。つまりフツーのクリスチャンのわたしに言わせると、何を思うにも何をするにもいつも「主の主王の王主イエス・キリストの御前で」というお祈りと共にでなければ何のために主はすべてのいのちのために十字架にかかり復活してくださったのかがわからなくなる。主の十字架上の死は「自分の罪のためそしてその死よりの復活はわたしたちのすべての生きとし生ける者を復活のいのちを与えて生かすため、永遠に」ということである。
この「主の御前で」何事も思い、行おうとすることこそ真の人間の姿であるとフツーのクリスチャンのわたしは痛切に思うのである。主の主王の王主イエス・キリストの御前で。
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【真の人間の姿(新約聖書)】10.08.08
↓:姿
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(マルコによる福音書第14章7節 )
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主は実はこう言いたいのだ。わたしに。
「あなたがたはわたしといつも一緒にいるわけではない」。
主はこのような悲痛な気持ちだったとわたしは思う。つまりフツーのクリスチャンのわたしに言わせると、何を思うにも何をするにもいつも「主の主王の王主イエス・キリストの御前で」というお祈りと共にでなければ何のために主はすべてのいのちのために十字架にかかり復活してくださったのかがわからなくなる。主の十字架上の死は「自分の罪のためそしてその死よりの復活はわたしたちのすべての生きとし生ける者を復活のいのちを与えて生かすため、永遠に」ということである。
この「主の御前で」何事も思い、行おうとすることこそ真の人間の姿であるとフツーのクリスチャンのわたしは痛切に思うのである。主の主王の王主イエス・キリストの御前で。
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【真の人間の姿(新約聖書)】10.08.08
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