神はそのひとり子を賜ったほどに、
この世を愛してくださった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで
永遠の命を得るためである。
(ヨハネによる福音書第3章16節 )
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主は御子主イエス・キリストの十字架と復活において自らのことをわたしたちいのちある者に「告白」してくださった。フツーのクリスチャンのわたしに言わせれば「告白」とは主なる神のなさることでわたしたちのすることではない。
わたしたちは主の御前で完全に主のように自らを「告白」することなど絶対に不可能だからである。その意味で「告白」とは「主なる神のすること」である。だから「信仰告白」とは主の御力が与えられてはじめて主の御前でさせていただけるものである。
主から与えられなければいかなる者も「神と人にてひとつのキリストなり」「父も主、子も主、聖霊も主なり、ただひとつの主なり、ただひとつの愛なり、ただひとつのキリストなり」と「信仰告白」などできないというのがフツーのクリスチャンの主よりいただいた「信仰」である。誰でも「告白」する時、主を身近かに感じさせていただけなければそれは「告白」とは言えない。
それほど「告白」には細心の注意が必要である。
そして「告白」するとは「主とひとつになる」という一大事であり、フツーでごく自然なことである。
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主から与えられなければいかなる者も「神と人にてひとつのキリストなり」「父も主、子も主、聖霊も主なり、ただひとつの主なり、ただひとつの愛なり、ただひとつのキリストなり」と「信仰告白」などできないというのがフツーのクリスチャンの主よりいただいた「信仰」である。誰でも「告白」する時、主を身近かに感じさせていただけなければそれは「告白」とは言えない。
それほど「告白」には細心の注意が必要である。
そして「告白」するとは「主とひとつになる」という一大事であり、フツーでごく自然なことである。
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