ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

あなたにとって神とは誰か?(2)。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(旧約聖書)

2020年10月09日 00時08分18秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
     あなたはわたしのほかに
     なにものをも神としてはならない。

        (出エジプト記 第20章 第3節 )


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 ここでひとつ主イエス・キリストからの忠告がある。
 それは「信教の自由」というものだ。
 つまり人間もその他の生き物も何を神として拝んでも、その人間や生き物の「自由」だということだ。
 みんながみんな主イエス・キリストを「自分の救い主」、「自分の神」と思って拝む必要はないのだ。(当たり前のようだけど、でも当たり前じゃなくなるときがあるのだ)。
 日本にはこの「信教の自由」をズバリ言い当てているすばらしい言い回しがある。
 「イワシの頭も信心から」というものだ。
 大切なのは、イワシの頭は何でもいいんだよ、と主イエス・キリストは言っているのである。
 「このわたしを神として拝まなくてもいいんだよ」と言っているのだ。
 わたしはフツーのクリスチャンとしてハッキリ言うが、この「イワシの頭」(信仰の対象、ご神体)を、国家権力やその他のいかなる団体も何びとも、誰であれ無理やりに人間から取り上げたりしてはいけない。
 こんなことがあってはならない。人間にとってこれほど「不自由」なことは、ない。
 この拙文をお読みいただいているあなたも「自分のイワシの頭」を取り上げられないように、よくよく注意することをお勧めする。
 「イワシの頭も信心から」という言い回しは、日本だけのものではなく、「すべての人間にとって最も大切」なことを言い当てていると思う。(普通は揶揄して使われるが、わたしは敢えてこのように解釈した)。
 
 もうひとつ主イエス・キリストから、わたし自身とみなさんにご忠告。
 ただ主イエス・キリストに救われたフツーのクリスチャンとして、わたしは主イエス・キリストという存在を自分の父として親友として、みなさんに紹介している。そのように主イエス・キリストがわたしを用いて下さっている。
 これをフツーのクリスチャンは伝道という。
 伝道しなさい。
 あなたがたの心に、まずは福音を伝えなさい。そう主イエス・キリストは言われる。



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