
あなたはわたしのほかに
なにものをも神としてはならない。
(出エジプト記 第20章 第3節 )
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ここでひとつ主イエス・キリストからの忠告がある。
それは「信教の自由」というものだ。
つまり人間もその他の生き物も何を神として拝んでも、その人間や生き物の「自由」だということだ。
みんながみんな主イエス・キリストを「自分の救い主」、「自分の神」と思って拝む必要はないのだ。(当たり前のようだけど、でも当たり前じゃなくなるときがあるのだ)。
日本にはこの「信教の自由」をズバリ言い当てているすばらしい言い回しがある。
「イワシの頭も信心から」というものだ。
大切なのは、イワシの頭は何でもいいんだよ、と主イエス・キリストは言っているのである。
「このわたしを神として拝まなくてもいいんだよ」と言っているのだ。
わたしはフツーのクリスチャンとしてハッキリ言うが、この「イワシの頭」(信仰の対象、ご神体)を、国家権力やその他のいかなる団体も何びとも、誰であれ無理やりに人間から取り上げたりしてはいけない。
こんなことがあってはならない。人間にとってこれほど「不自由」なことは、ない。
この拙文をお読みいただいているあなたも「自分のイワシの頭」を取り上げられないように、よくよく注意することをお勧めする。
「イワシの頭も信心から」という言い回しは、日本だけのものではなく、「すべての人間にとって最も大切」なことを言い当てていると思う。(普通は揶揄して使われるが、わたしは敢えてこのように解釈した)。
もうひとつ主イエス・キリストから、わたし自身とみなさんにご忠告。
ただ主イエス・キリストに救われたフツーのクリスチャンとして、わたしは主イエス・キリストという存在を自分の父として親友として、みなさんに紹介している。そのように主イエス・キリストがわたしを用いて下さっている。
これをフツーのクリスチャンは伝道という。
伝道しなさい。
あなたがたの心に、まずは福音を伝えなさい。そう主イエス・キリストは言われる。
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↓:でんどう。
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(出エジプト記 第20章 第3節 )
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ここでひとつ主イエス・キリストからの忠告がある。
それは「信教の自由」というものだ。
つまり人間もその他の生き物も何を神として拝んでも、その人間や生き物の「自由」だということだ。
みんながみんな主イエス・キリストを「自分の救い主」、「自分の神」と思って拝む必要はないのだ。(当たり前のようだけど、でも当たり前じゃなくなるときがあるのだ)。
日本にはこの「信教の自由」をズバリ言い当てているすばらしい言い回しがある。
「イワシの頭も信心から」というものだ。
大切なのは、イワシの頭は何でもいいんだよ、と主イエス・キリストは言っているのである。
「このわたしを神として拝まなくてもいいんだよ」と言っているのだ。
わたしはフツーのクリスチャンとしてハッキリ言うが、この「イワシの頭」(信仰の対象、ご神体)を、国家権力やその他のいかなる団体も何びとも、誰であれ無理やりに人間から取り上げたりしてはいけない。
こんなことがあってはならない。人間にとってこれほど「不自由」なことは、ない。
この拙文をお読みいただいているあなたも「自分のイワシの頭」を取り上げられないように、よくよく注意することをお勧めする。
「イワシの頭も信心から」という言い回しは、日本だけのものではなく、「すべての人間にとって最も大切」なことを言い当てていると思う。(普通は揶揄して使われるが、わたしは敢えてこのように解釈した)。
もうひとつ主イエス・キリストから、わたし自身とみなさんにご忠告。
ただ主イエス・キリストに救われたフツーのクリスチャンとして、わたしは主イエス・キリストという存在を自分の父として親友として、みなさんに紹介している。そのように主イエス・キリストがわたしを用いて下さっている。
これをフツーのクリスチャンは伝道という。
伝道しなさい。
あなたがたの心に、まずは福音を伝えなさい。そう主イエス・キリストは言われる。
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