ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

主の十字架を仰ぐ者として。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(旧約聖書)

2022年04月16日 00時04分16秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
    主は無学な者を守られる。

     (詩篇 第116篇 6節 )


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 上記の一節の意味することは、博学とは「主の主王の王主イエス・キリストを信ず」と全身全霊をもって「信仰告白」が出来るもののこと。
 それはわたしたちフツーのクリスチャンにとって「主の御前で真に謙遜」な者のことだ。
 「無学」とはこの場合「何も知らない」ことではないのだ。
 わたしたちフツーのクリスチャンにとっては「主の主王の王主イエス・キリストを知ること」は「全宇宙のすべてを知ること」である。主ご自身がわたしたちいのちあるすべての者に教えた「愛すること」「愛されること」つまり「愛」のことだ。
 この「愛」はキリスト教徒によくありがちな単なる「犠牲的精神」のことではない。
 どのような人もどのようないのちも「自分のいのち」を失ったらその「いのち」はいったい何によって取り戻すことができるのか?だから「愛」といったらイコール「いのち」なのだ。「犠牲」はただ一つ主の十字架上の死だ。もちろん主の十字架にあやかりたくて「自分のいのち」を犠牲にしたいと思う人も存在する。しかし「いのちの犠牲はわたしたちフツーのクリスチャンにとって主の十字架だけ」である。わたしたちフツーの人間がヘタに「犠牲的精神」を持ち合わせそれこそ「愛」だと言ったら「主の十字架」から主を引きずりおろして「オレがオレが」となりはしないだろうか?
 主はそんな人間のオロカシサはよくご存知である。主の十字架を仰ぎ真の謙遜を学ぼう。



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