
「私は、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、
またカイザルに対しても、何の罪も犯しておりません」。
(使徒の働き 第25章 8節 )
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上記引用聖句はパウロがフェストによる裁判の時、弁明したことばである。
これを読んで賢明な読者は大切なことを思い出すだろう。
そう、主イエス・キリストが十字架につけられたのと同じような裁判であることを。
つまりパウロも「思想犯」として無理矢理裁判を受ける羽目になったのである。
「思想犯」として片付ける。これほど権力者に都合の良いことはない。
「あいつを野放しにしておくと、国が汚される」といった具合である。
民衆はたいていこれに乗ってしまう。
主の御前に何が正しくて何が悪いかと言ったら、「思想犯」というのはとても悪い。
いのちの君を十字架にかけて殺すほどである。しかし主はこの「思想犯」というもの
まで善用してくださった。
全き神全き人間であられた主はわたしたちすべてのものの全宇宙のすべての生命体
(心と魂と肉体のあるものすべて、もちろん人間も含む)の罪の罰の身代わりとなって
十字架にかかり復活のいのちを与え、とこしえのいのちを与えるために復活してくださった
のである。
主に栄光がありますように。
主イエス・キリストの御名によって。
アーメン。
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