
福音の立場に従うなら、右からも左からも
そしてまた教会の外部からも内部からも
何らかの形で迫害されることになる。
それがつきまとう運命である。
しかし同時にこの問題に打ち勝つ力と希望は
迫害よりもはるかに大きい筈である。
(「聖書思想辞典」 三省堂 )
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これはいわゆる運命論ではない。
主の道(福音の立場つまり主イエス・キリストを信じ彼を自分の救い主として受け入れる立場)を歩む者、また歩もうとする者が当然に主から与えられる状態を言っている。(あるいは主より与えられる試練である)。
ある人たちは迫害された揚句その迫害に耐えられなくて「自殺」してしまった。
しかし冷酷な言い方をしてしまうが、その自殺してしまった人たちはそのような関係しか主ご自身と築くことができなかったのである。
主はあの小さな雀が一羽地に落ちることも天の父のゆるしがなければありえないとおっしゃっている。このみことばを考えると「自殺」を天の父がおゆるしになったのだ。主ご自身とそのような関係性しか築くことができなかったのだ。まことに気の毒なことではあるが、わたしはフツーのクリスチャンとして迫害に耐えられる人と耐えられない人が存在することをここに明言させていただく。
わたし自身こんなことを書いているが、時々迫害に耐えられなくなる。「なぜ主はこのような迫害をわたしに与えるのか」との問いに押しつぶされそうになる時があることはあるのである。
ずいぶん少女ジーザスは強くて、冷酷なヤツだと思いの方は、ではなぜ主ご自身が迫害されたかを福音書を読んで再考していただきたい。
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【言の葉(聖書思想辞典)】10.10.19
↓:コワ

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