☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
ある社会からいわゆる「はずれた者」「はみだし者」のすることそして言うことはすべて「暴力」とされる。「非暴力」を主張した「言論の自由」はそれ自体「暴力」としかみなされないことがある。
この拙文を読んでくださっているあなたは「戦争」に「反対」だろうか? それとも「戦争も時にはやむをえないこと」として「賛成」だろうか?
わたしたちフツーのクリスチャンは「戦争」は主が創造なさった「生命のシステム」の全否定として絶対に反対の立場を全宇宙に向かって主張する者たちである。特に「正義」の名を借りての「戦争」は「暴力以下」「人殺し以下」の「暴力行為」として断固反対する者たちである。だからわたしたちフツーのクリスチャンにとっては「戦争」はどれほど「美化」されても「主の生命のシステムの全否定」である。つまりそれは何も理論体系のないただの「無神論」というか、「無生命論」である。
わたしたちフツーのクリスチャンにとっては「無生命論」は「無神論以下の以下」のホントの「暴力行為」である。
実にこのような当たり前のことを言い続けることが真の平和を推進することにつながるのだが、ある人たちにとってはそれが騒々しいことと受け取られる。言い続けると「暴力」と同一視されるのである。
原発反対を言い続けると疎まれたり、ジャマ扱いされる。
平和と安全のために言い続けることを「暴力」と同一視する姿勢に疑問を感じる。
安全でないものを安全と言い続け、大衆を丸めこむことこそが暴力なのである。
「暴力」であるのか否かを各自それぞれが冷静に判断することが必要なのだと痛感する。
キリスト教国と言われる国や、キリスト者と自認する人々が、他国他地域を蹂躙し、暴力によって支配してきた歴史は、まさに主のみこころに敵対するものである。
現に行われているウクライナの惨状は、キリスト教正教が同じ正教を侵略する罪深き行為の結果である。
キリスト教の教会もその歴史を振り返ってみて、猛省するべきときが来たと言えるだろう。
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
↓:♥。🔫。✝。
にほんブログ村