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「でにをは」別口入力・三属性の変換による日本語入力 - ペンタクラスタキーボードのコンセプト解説

粒度考:「視野を広く持つ」ではなく「構えを洗練させてみる」の方がしっくりくる

2018-09-27 | 当ブログの基本的な考え方・方針・見解
物事を分割することで「構造」が生まれ、推論や指示系統や相互関係などの「シナリオ」が自ずから喚起される――いきなり抽象的な話から入っていきましたが、物事の枠組みを決定するうえで、分割のスタイルというのは重要なところです。
これは言語においても多分に当てはまります。日常の頻出事項はきめ細かく要素が生まれ、そうでないものは面倒をもって何かの複合的な概念としてなんとか言い表して事を済ませます。
日本語においては梅雨、時雨、五月雨、小糠雨(こぬかあめ)など雨に関する語彙が充実しているのと同様に
英語だとcattle(集合的に畜牛)、cow(雌牛・乳牛)、bull(雄牛)、ox(去勢された雄牛)、calf(子牛)、beef(牛肉)など畜産系の語彙が発達しています。
逆に自国の語彙にないものはひと単語では言い表すことができず、既存語の組み合わせによってあらわすことになります。
これは世界の切り取り方そのものです。切り取り方ひとつで世界の見え方が変わって見えてそこの語彙背景を匂わせながら陳述に動きやムードを纏わせることができます。

話は変わってペンタクラスタキーボードの世界の切り取り方はどうでしょうか。
「でにをは別口入力」によって助詞の境界はハッキリしたおかげで無用なセパレート変換候補は排除されて選択肢が絞られてよりシンプルな世界を目指した、とも言えます。
その一方で助詞でも非助詞であっても統一的にまな板にのっけられることのできた形態素解析のプロセスに余計な分断をもちこんでしまいむしろ事態を複雑化させてしまっているというのも見方によっては真実です。

こういった何に力点を置くか、それによって変わってくる世界の捉え方は「業務プロセスの粒度」であるとか「サービスの粒度」といった形で分解能のきめ細やかさの度合いをこう呼ぶビジネス用語が定着してきておりますが、私流のアレンジを加えると尺度にこだわらずスタイルそのもののありかたをふわっと描いた言葉として、
「粒様」(りゅうよう)といった造語も同じく使っていきたいと思います。
粒度を枝の例えに言い換えることもできます。枝の分岐が2~3又に分かれるのか、多数の枝に一気に分岐するのかという数量的な要素ももちろんありますしもっとイメージで伝えるとしたなら曲がりくねった枝ぶりであるとか峻厳な佇まいの枝ぶりもあるでしょうし、こういった「味」を解釈するうえでは「粒様」のほうが抽象的でより察しがつくというものでしょう。

「井の中の蛙大海を知らず しかし空の深さを知る」という改変ことわざも、一見負けず嫌いのやせ我慢からでた感が見え隠れする表現ではありますがこれもある意味では粒度の幅を絞ってその一方で「空」という深いレイヤーへのリーチはいつでもアクセス可能!…みたいな「選択の潔さ」からくる新たな地平の可能性に気づかせてくれる素敵な表現だと思います。
これとは対極に
「天網恢恢疎にして漏らさず」というのもぼんやりと目に見えないくらいのゆるい網、これは可算数個の粒度では説明しきれず不定数の粒度の概念を持ち込むかのごとくでありますがそのたどり着く先は「すべて漏らさぬ包囲網」であってここにいろんな神秘の明知が詰まっています。
これら二つの例も「粒度の運用法」という共通の眼差しから見たら統一的に説明のつくまな板の問題と捉えることができます。

ここで冒頭のタイトル「視野を広く持つ」ではなく「構えを洗練させてみる」の方がしっくりくる…に立ち返って思いを巡らせてみたいと思います。

粒度・粒様にいろんなパラメータを投げかけることで私たちはさまざまな世界の捉え方を描出できる術を手にしてはいますがそれだけでは世界の全てを知った事にはなりません。
私たちは俯瞰的なポジションにいるとつい錯覚して画一的な操作概念でアクセス可能な事象しかないと思い込んでいますがそんな保証はどこにもありません。
すべてが等価だとしたら先程の言語の例になりますが語彙も文法のなんでもMIXのちゃんぽん言語が効率化を目指した先の最終帰結となるわけですが、実際にはそんなふうにはならないのです。(今のところですが)
「視野を広く持つ」「価値観の多様化」といった言説には何か確固たる軸を持てない、大きな物語を持たない現代人の大いなる悩みから来た苦し紛れのぼやけた表現なのかもしれません。
特に「視野を広く持つ」というのは当世コレクター気質の現代人からすれば、カタログ集め、モンスター集めの営みでしかなくてコンプリート自体が目的化された書庫としての多様性しか意味しておらず奥行きに乏しいものであります。
「知っていれば」「持っていれば」それで終わり、の「そんな人もいるよね」程度の他人事のような世界観です。
このような有様では果たして「本当に知った」ことにはならないのです。
ネット情報に耽溺している私も、ついこんなことにはなっていてはしまいか、大いに自戒したいところです。もっと文脈も汲み取らねば…。

長々と書いてしまいましたが、大事なのは「視野」というスケールの問題ではなく、「構え」というルール/体系を自覚しながら行う営みのほうにより真髄があるのではないか、ということです。
なのでペンタクラスタキーボードのコンセプトもイロモノ扱い、変わり種扱いという辺縁のバリエーションと捉えてしまわれるのではなくなぜ(日アルファベット完全分離・でにをは別口入力・三属性の変換)このような「構え」をもつようになったか、その背景を噛みしめてもらいたいのです。

分かりにくい例えで恐縮なのですが「認知モアレを起こさない」ということも大事です。
「モアレ」とは、二つの規則的な模様が重なった際に起こる幾何学的な干渉縞のことでありますが、これをペンタクラスタキーボードの議論に当てはめると、品詞体系の整合性はどうするのか、変換アルゴリズムは最小コスト法みたいに助詞部分もスコア付けするのか
…みたいな従来線上の議論も当然出てくるかと思われますが、これは十分注意深く行わなければいけない、ということです。
わたくし当方といたしましては、そういった技術的なところで検証されることは喜ばしい事ではありますが、今までの確立された知見をもとにしてだけで話を進めてしまうと私の拙論ではあれがまずい、これがまずい、と厳しいダメ出しを食らうこともあるかとは思います。
ですがもう少しあたたかな立場でご検討をいただきたいということであります。
「構え」が違う以上、お馴染みの議論要素、論点であっても自己導出的な「常識の確認」に終始しているばかりでは何も建設的ではありません。「構えの中の『部分』」の話ですからわれわれは額面通りの論拠で斬るということはできずに、文脈ごと意味するところを論じなけれならないのです。
従来の日本語入力(①)と、ペンタクラスタキーボードの日本語入力(②)についてと、ほぼ同じような技術トピックをあたっているようなときであってもその背景の文脈の違いによって取り扱いを別ものとして扱う方が適切である場合もあるかもしれません。
評論の視点は、その時すでに「広い視野」の俯瞰視点に立っているとの前提でおこなわれますが、実際それが適格なものであるかどうかはふたを開けてみるまで分かりません。
「従来」の線上に①と②を載っけようとするから認識の齟齬=認知モアレが起きてしまうことになるので①②を「別の世界で起こった事象」と捉えて認識形を一から構築せねばなりません。別の世界で起こっている以上、当然物理法則も違うものなのです。


ほとんど抽象的な事ばかりであまり具体的な事には触れられなかったのですいません。
なにぶん模索中の身で自分の言いたいことすらわからない状態でありますのでご容赦頂きたいところなのですが、ここで語った思いのいくばくかが、今後具体的なところが見えてきたときにいつか羅針盤の役割になることができれば満足な事と思います。
今はとりとめもなく筆の進むまま思いの丈を書き連ねていったところであります。お付き合いありがとうございました。

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