1月は行く、2月は逃げる、3月は去る。
この言葉通り、駆け足で2月が逃げていった。
3月もすぐに去っていくのだろうなあ。
忙しいのはありがたいこと、だと思う。
けど、型通りに仕事をこなすだけの毎日だと、
どんどん無感動になっていくのが自分でわかる。
時には何にもせずに何かをぼんやりみていたい。
木を見る、空を見る、雲を見る。
あと空気の流れ(ほこりが落ちていく様だけじゃなくて空気にはうねるような流れがあるように見える)。
何時間見ていても飽きなかった。
そういうものをぼんやりとみつめながら、
時間ってなんだろうとか、いつか死ぬんだろうなあとか、
普段は頭の隅に追いやられていることを考えたりしていた。
小学生の頃は、そんな風にみんな、
自分なりに「哲学」している時間があったはずだけど、
そんな時間は、大人になってからすっかりなくなってしまった。
現代美術は、日々の表面的な出来事に追われて考えることを忘れている人に
小学生の頃と同じような「ぼんやりする哲学時間」を与えてくれると思う。
時間泥棒に盗まれた大切な「自分の考える時間」を取り返してくれる。
現代美術と向きあうことは、無くした自分の思考と向きあうことだと思う。
土曜日。
東京の京橋 art space kimura ASK?で行われていた個展、
橋本典久さんの「NOTATION : 鏡の中の箱」に行ってきた。
2週間も展示期間があったのに、17:00の閉館時間ギリギリになってしまった。
(ありがちだけど、18:00までと勘違いしていた・・うう。)
橋本典久さんは美術科のワークショップ授業でお世話になっていたアーティストさんで、
アニメーションのいちばん根っこになる原理をわかりやすく教えてくれる授業が、
毎年、生徒たちに大好評だった。
これから卒業する生徒たちは橋本さんの授業を2年生のときに受けているのだけど、
とても楽しかった授業の思い出として残っているという。
今年度は予算の関係で授業を行えなかったのがとても悔やまれる。
橋本さんの作品は、たぶん後でジワジワくる。
art space kimura ASK?というギャラリーは、箱のような空間。
それを1つのカメラの『中』に見立てたような『self-portrait』という作品。
写真を撮る→1枚の写真作品ができる、という過程で、
削ぎ落された「→」の部分について考察し、ビジュアル化したもの。
橋本さんは大学の先生でもあるので、
物わかりの悪い生徒にも噛んで含めるように教えるのは大変得意なのだと思う。
ご本人が口頭でわかりやすく説明してくださると、
頭の悪い私でも「なるほどー・・・。」となったけど、
腑に落ちていろいろ考え始めるのは、私はみた翌日以降となる。
頭が、普段は流れ作業的なものばかりに対応していて、
本当に自分が普段「考える」モードになっていないのだなと気づく。
これは危険だ・・・。
削ぎ落された時間をストップさせて拡大して見せてくれているような不思議な感じだ。
同時にとても『懐かしい』感じがした。
削ぎ落されたものや時間に目を向け、考えるという姿勢は、
小さい頃、私たちは普通に体験していたことではなかったか。
いつ忘れてしまったのだろう。
『memories』という作品では、
もはや消え行くメディアでもある写真のフィルムをフロッタージュしている。
『Breathシリーズ』は前回の展示でも拝見したのだけど、
これは映画の時間の流れを90°傾けたところからスライスして(なんといっていいのか・・・!!)
それを並べた不思議な作品。今回は映画の中の1分間だけ抜き出したとのことで、
『Breath,one』と名づけられていた。
目のつけどころがユニークなのはもちろんだけど、
作品としても大変美しい。
そして、こちらに「考える」ことをプレゼントしてくれる。
それはとても「懐かしい時間」なのだ。
時間をスライスするって、小学生のとき、そういう感覚に陥ったことがあった。
ぺらぺらな1枚の薄い時間の積み重ねが、自分の時間なんだという感覚。
そういう感覚、小さいときにはあった人が多いのでは?
そう、これは、単なる写真や映像に関する展示なのではなく、
小さな頃、時間を忘れて期せず哲学をしていた私たちの『思い出』の展示なのだ。
橋本さんは、
私たちがいつの間にか無くした時間と哲学を丁寧に掘り起こし、
慎重に美しく組み直し再現することのできる、
現代の考古学者のようだと感じた。
現代美術って、現代人にとってものすごく重要だと思えた展示だった。